2006年に日本の100名城が決められましたが、長野県からは「上田城」を含む5城が選ばれています。 上田城と言えば真田昌幸の居城です。徳川家との二度の戦に素晴らしい勝ちをおさめた戦、第一次、第二次上田合戦で一躍有名になりました。
上田城と「真田昌幸」
上田城は1583年(天正11年)に真田昌幸によって築城された城で、三方を自然の要害に囲まれた難攻不落の城です。真田昌幸はこの城を巧妙に利用して二度も徳川軍を翻弄しました。第一次上田合戦、第二次上田合戦です。
真田信繁は幼少の頃、上杉家に人質に出されており、上田城で生活した時間が短いため第一次上田合戦では活躍していません。
上田城、二度の合戦に耐え抜く 昌幸の戦略は孫子の兵法?
昌幸は武田信玄が信頼した人物であり、戦には周到な準備をして臨んでいます。兵力を頼りに力で押し込むような無謀な戦はしません。上杉、北条、徳川、など周囲を大大名に囲まれた小さな豪族でしたから敵の情報を収集し(いわゆる諜報、忍者部隊)、少ない兵力で戦いに勝つ方法を常に研究していました。
昌幸は孫子の兵法を知っていたのか、知らなかったのかは文献には記載されていませんので、分かりませが、推測するに多分知っていたのではないでしょうか。武田信玄から学んだのかもしれません。いずれにしても大変優れた戦略家、戦上手でした。
第一次上田合戦、それは徳川家と北条家の密約で真田家の沼田領を北条に譲れと言う無理難題です。時代背景として徳川家康は豊臣秀吉と戦争状態だったため、徳川領の背後にある北条家の動きを阻止しておかないといけない状況でした。
昌幸は覚悟を決め徳川家との戦を選びます。このとき上杉には昌幸の次男、信繁(幸村)を人質に差し出しています。戦の兵力は徳川7000、真田2000で多勢に無勢でしたが、籠城作戦、奇襲作戦を総動員して、真田の圧倒的な勝利で戦は終わりました。
第二次上田合戦は1600年関ヶ原の戦いの直前におこりました。西軍に与する昌幸、信繁の籠城する上田城に徳川秀忠を総大将とする37000の軍勢。
この時、徳川方には長男の伸幸(信之)が味方していましが、第二次上田合戦も徳川方は昌幸の戦略に翻弄され、またしても徳川方の敗北で終わりました。秀忠は上田城を諦めて関ヶ原に向かいます。
徳川家の意向で松代に移封、その後は松平氏の居城に
関ヶ原の大戦で西軍は大敗して、徳川家康が天下を握ります。幸い真田家は信之が東軍に味方していましたので、お家は存続しました。
しかし二代将軍の秀忠は真田家に対して良い感情は持っていません。第二次上田合戦で昌幸には煮え湯を飲まされた経緯があったためか、1622年昌幸の嫡男、真田信之は上田から松代に移封されます。いわゆるお国替えです。以後は松平家の領地となりました。
真田家は明治まで徳川の大名として存続します。これは昌幸の長男、信之の功績です。信之は次男信繁(幸村)の陰に隠れて地味な武将ですが、たいへん沈着冷静な人物であったと推測します。そして当時では珍しく九十三歳の天寿を全うします。最後まで真田家、徳川家、日本の安泰を望んでいたのではないでしょうか。
現代における上田城、春のさくら祭りと上田真田まつり
現存する上田城は、昌幸が築城した当時の面影はないと言われています。毎年、春になると4月中旬には上田城跡公園さくらまつり、その二週間後には上田真田まつりが開催されます。上田真田まつりは上田城開城400周年を記念した行事で、真田―徳川の模擬合戦や、武者行列があり賑わいます。上田城は石垣や櫓が綺麗で有名な城です。真田一門、イベントに興味がある方は是非一度お尋ね下さい。