【信長に翻弄された容姿端麗な武将・浅井長政】
戦国武将のなかでも人気の高い浅井長政。
彼の人気は容姿端麗であったこと以外にも、その生きざまが理由として挙げられます。
織田信長の妹である市を妻とし、信長とは義理の兄弟関係にありました。
夫婦仲睦まじく、信長とも良好な関係にあったのですが、ある事件をきっかけに決裂。
その後、長政は二十九歳で自害をします。長政に一体何が起こったのでしょうか。
【若くして才能を発揮。長政、浅井家三代目当主へ】
浅井長政は北近江を治める浅井家の三代目として生まれました。
浅井家の初代当主であり、祖父の浅井亮政は力のある人物で、京極家の配下だった浅井家を独立に導きます。
その後、長政の父、浅井久政が当主となると浅井家は京極家からの反撃を受けることになりました。
もともと久政は才が無いと言われていたためか、京極家だけでなく六角家からも攻められることとなり、その結果浅井家は六角家の属国となってしまいます。
これには家臣たちも不満が爆発。
なんとかしてこの状況を打ち破って欲しいと、その希望を浅井長政に託します。
そして1560年、十六歳の若さで初陣を飾った浅井長政は六角家を撃退し、これを機に浅井家の三代目当主となりました。
この頃、そんな長政に注目する人物が現われます。
それが織田信長。
【織田信長と同盟を組んだものの・・・】
当時、信長は尾張を支配していました。つづいて美濃の侵攻を予定しており、それには美濃の隣国である近江と同盟を組み、挟み撃ちにして支配しようと信長は考えます。
そのため1564年に信長は使者を浅井長政に送り、同盟を持ちかけました。
同盟の条件は浅井家にとっても良いものであったため、長政もこれを承諾。
同盟の証として長政は信長の最愛の妹・市を妻として迎えます。
地の利のための関係かと思われましたが、織田信長は浅井長政を信頼していたようで、婚礼の費用をすべて負担したとも言われています。
(当時の慣例で言えば、婚礼費用は全額浅井家が出すのが普通でした)
その後、両者の関係は良好に続いていくものと思われていましたが、ある事件が起こります。
それは1570年に織田信長が越前の朝倉氏への侵攻。
朝倉氏は浅井家と古くからの仲であり、信長と同盟を組んだ際に「朝倉氏へは攻め入らない」と取り決めもしていました。
しかしそれを織田信長は裏切り、朝倉氏討伐を始めます。こうして浅井長政と織田信長の仲は決裂。
【反旗を翻した長政、信長包囲網で征伐を試みる】
朝倉につくか織田につくか、悩んだ末に浅井長政は朝倉氏と組み、姉川で織田・徳川連合軍と戦を広げました。
猛攻を見せたものの、敗北。
織田の軍勢に攻め入るには頭数が必要と考えた浅井長政は、比叡山延暦寺、石山本願寺の僧侶や宗徒らと連携を結びました。
こうしてできあがったのが「信長包囲網」です。
このまま織田信長を追い詰めるかと思いきや、当時の将軍・足利義昭から停戦するよう命令されます。
実はこの停戦命令を出すよう裏ではたらきかけたのは織田信長とも言われており、彼の策略家の一面がうかがえます。
その後、信長は足利義昭を追放し、先の停戦命令を破棄して再び長政への攻撃を始めました。
姉川の合戦によって態勢を崩されていた長政は小谷城にこもり援軍を待ちますが、その甲斐虚しく織田軍に城を包囲されます。
そして二十九歳にして自害。
のちに織田信長は宴を開き、そこで浅井長政の頭蓋骨を盃にしてお酒を飲んだともいわれています。
【信長の妹・市を愛し続けた一生】
二十九歳で幕を閉じた浅井長政の生涯。
彼の生きざまを語る上で欠かせないのが、妻・市との関係でしょう。
織田信長の人質として彼女を利用することもできたかもしれませんが、浅井長政はこれをしませんでした。
それほどまでに市のことを愛していたのかもしれません。
そして小谷城を包囲された際、彼は市と三人の娘を逃がしたのち、自刃。
彼の生涯を見ていくと、よりその人気の理由がわかるような気がします。