浅井長政 最後の手紙

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戦国武将の名言

浅井家の当主、長政が小谷城・落城を目前に、家臣の片桐直貞に与えた書状は、世に「浅井長政 最後の書状」として知られています。
最後の書状は、巾10センチに満たない紙切れに書かれており、落城間際の切羽詰まった様子を彷彿させます。「今度当城不慮ニ付、此丸一つ相残り候」で始まる短い書状ながら、片桐直貞宛の手紙に書かれた内容は、「本丸を残すのみになったいま、多くが城を抜け出すなか籠城し忠義を尽くすそなたには感謝にたえない」云々と、ひたすら忠勤への謝意を述べています。
文面からは死を目前にした長政の取り留めもない別れの手紙にも見えますが、この書状で片桐直貞の忠勤に感謝しつつ君臣の絆を解いて、折りがあれば然るべき主人を選べよ、と伝えようとしていたのかもしれません。
その後、長政が直貞の将来を見据えて与えた最後の書状の意図は、思わぬ向きに流れてしまいます。
長政の書状の意を汲んだか、片桐直貞は小谷落城後、羽柴秀吉に仕えます。息子の片桐且元も秀吉に仕え、賤ヶ岳七本槍の武功で名を馳せます。
その後、且元は秀吉の晩年に豊臣秀頼の傅役の一人に任され、大阪城で淀殿の身近に仕えました。
淀殿は浅井長政と市のあいだに生まれた三人娘の長女茶々です。且元が十代の頃、小谷城で三姉妹と同じ時間と空間を過ごしています。
秀吉が亡くなり関ヶ原の戦い以降、且元は豊臣氏と徳川氏の対立を避けるために尽力します。
方広寺鐘銘事件が起こって豊臣氏と徳川氏の対立が激化すると、徳川家康との和平交渉に奔走しました。
且元は家康との戦いを避けるために秀頼の江戸参勤、淀殿の人質、秀頼を大阪城から移す、などの徳川家からの要求を伝えましたが、豊臣方から家康との「内通」を疑われて、且元は大阪城を退去します。
そして大坂の陣が始まると家康に味方することになりました。
夏の陣で大野治長から本丸北の山里丸にいる淀殿と秀頼の助命嘆願を乞われた且元は、秀忠に助命を伝える以外になにもできる立場にいませんでした。
結局助命は叶わず、豊臣家は滅亡。夏の陣から二十日ほどして、且元は京屋敷で突然の死を遂げています。六十歳でした。秀頼に殉死したという説がありますが、定かではありません。
歴史の流れはどうであれ、長政が直貞に与えた書状は、結果として片桐父子を生かすことができました。
落城間近の土壇場に立った長政の心境は尋常ではなかったはずですが、文面からは死を控えて揺らぐ心が見えません。長政の冷静沈着な風さえも感じられます。長政の思慮の深さ、人間の器の大きさを知る材料にこれほどのものはありません。

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