千利休の名言集です。

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戦国武将の名言

「わび茶」を大成させた茶人・千利休。
日本の歴史のなかで茶人として最も有名な人物ではないでしょうか。
2008年には山本兼一氏によって『利休にたずねよ』が出版され、のちに映画となって多くの人によりいっそう千利休の魅力が知られることとなりました。
織田信長、豊臣秀吉といった名だたる歴史人物に仕え、「茶聖」とも称せられた千利休。
そんな彼の人生は切腹という形で閉じます。
そのいきさつはどのようなものだったのでしょうか。

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【来歴 -天下人に仕えた茶聖・利休-】

千利休は1522(大永2)年、和泉国・堺の魚問屋「ととや」に生まれました。
利休は家業を継ぐために、両親から茶道をすすめられます。
そして十八歳のときに堺の茶人・武野紹鴎(たけのじょうおう)のもとを訪ね、茶の道に入りました。
その後二十三歳のときに初めての茶会を開催。
そうして時が経ち、1568年頃に織田信長が商業で栄えた堺の町に目をつけ、武力を背景に直轄地とします。
このとき利休は茶頭として織田信長に仕えることとなりました。
織田信長は茶道に関心の高い人物であり、利休以外にも今井宗久、津田宗久らも茶頭としてむかえ、茶道具の収集にも励みます。
そして1582年、織田信長は自身の茶道具を披露するための大々的な茶会を開催しました。
しかしその夜、歴史的にも有名な「本能寺の変」が起き、織田信長は明智光秀の謀反により敗れ、以降利休は豊臣秀吉に仕えることになります。
そして本能寺の変から3年後の1585年、「利休」という号を勅賜されました。
豊臣秀吉は織田信長以上に茶道に励む人物であり、大事な茶会を利休に担当させるなど、強い信頼がうかがえます。
1587年、豊臣秀吉は九州を平定。
これを祝して史上最大の茶会とも言われる「北野大茶湯」が北野天満宮で開催されました。
この茶会を取り仕切るのはもちろん利休です。
身分等も関係なく、百姓なども参加できたため、800カ所以上の茶席が設けられたとも言われています。
そうして大々的な茶会も成功させた利休ですが、豊臣秀吉との関係はこれ以降悪化。
最後には切腹を命じられるほどにまでなりました。

【豊臣秀吉との確執】

その後豊臣秀吉は経済的な欲にはしり、税を重くするなどして堺でおこなわれている貿易の利益を独占し始めました。
これに利休は反対の姿勢を示したため、豊臣秀吉との関係が悪化し始めたと言われています。
そのほか、利休の愛弟子を残忍な方法で処刑したり、茶道に関する価値観が違ったりとさまざまな要因が組み合わさり、よりいっそう2人の間には亀裂がはしるようになりました。
そして1591年、豊臣秀吉の弟・豊臣秀長が亡くなります。
豊臣秀長は温厚な人柄で周囲からの人気も高く、また利休のことを高く評価している人物でもありました。
そのため豊臣秀長を失くした利休は後ろ盾がなくなってしまい、その結果豊臣秀吉から京都を出て堺で自宅謹慎するよう命令されます。
その後も豊臣秀吉との仲は修復することがなく、利休が参禅している大徳寺の山門の上に木彫りの利休像が置かれたことがきっかけとなり、豊臣秀吉の怒りは頂点に達します。
この山門は豊臣秀吉もくぐったことがあり、「利休に見下ろされるとは何事だ」と憤慨し利休に謝罪に来るよう命じました。
これに対し前田利家も豊臣秀吉の妻伝いに謝罪をするのであれば処罰されることはないだろうと利休に助言するものの、利休は茶道に反するとして謝罪を拒否。
これにより1591年2月、豊臣秀吉は利休に「切腹せよ」と命じます。
利休の弟子たちは利休をどうにか守ろうと奔走しましたが、その命がくつがえることはありませんでした。
そして同年2月28日、利休のもとに豊臣秀吉の使者がやってきて「切腹せよ」と伝えます。
これを聞いた利休は「茶室に支度ができております」と応え、使者に生涯最後のお茶をたてたあと切腹し、六十九歳で人生の幕を下ろしました。
その7年後に豊臣秀吉も病没。
晩年には自身の安直な考えによって利休を切腹に追い込んだことを悔い、利休の思想を受け継ぎ「わびさび」を取り入れた生活を送っていたと言われています。

【利休の美学】

利休というと、「わびさび」というキーワードが浮かんできます。
これは茶道の師・武野紹鴎と、武野の師である村田珠光の思想を利休なりに解釈し発展させたものです。
利休の説く美学がうかがえるエピソードがこちら。
・ある日豊臣秀吉が利休のもとを訪ねると、庭にある朝顔がすべて切られていた。不思議に思いながらも茶室に入ると、床の間に朝顔が一輪だけ生けてあった。利休は極限まで要素を削ることによって得られる美を意識しており、豊臣秀吉もその考えに深く感銘を受けた。
・ある秋の日に利休は庭の落ち葉を掃いていた。一通り掃きおわると利休はパラパラと落ち葉を庭に撒き始めた。これを見た人が理由を尋ねると「少し落ち葉がある方が自然でいい」と応えた。

千利休の名言です。

茶の湯とはただ湯をわかし茶をたてて飲むばかりなる本を知るべし。
まず炭火はお湯の沸く程度にしなさい。お湯は飲みやすいように熱からず、ぬるからず、夏は涼しげに、冬はいかにも暖かく、花は野の花のごとく生け、刻限は早め、早めにして、雨降らずとも雨具の用意をし、お客の心を心とするのです。
小さな出会いを大切に育てていくことで、人生の中での大きな出会いになることもあります。
幸せになりたいのなら、幸せとの出会いに気づけないのも、幸せとの出会いを幸せに感じられないのも、もったいないでしょう
稽古とは、一よりならい十を知り、十よりかえる、もとのその一
当たり前のことが、いつでもどこでもできるならば、私があなた方の弟子になりましょう。
こゝろざし深き人にはいくたびも あはれみ深く奥ぞ教ふる
夏は涼しいように、冬は暖かなように。
その道に入らむと思ふ心こそ 我が身ながらの師匠なりけれ
頭を下げて守れるものもあれば、頭を下げる故に守れないものもある。
茶聖として最後まで自身の美学をつらぬき通した利休。
彼の思想は現代でも受け継がれています。
利休の美学を読み解くことによって、自身の生活を見直すきっかけにしてみるのもいいかもしれません。
戦国武将の名言集に戻ります。 

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