井伊直虎 乱世に咲いた一輪の花

戦国時代、「家」を守ることに奔走した各地の豪族たち。そんな中で、井伊家「絶体絶命のピンチ」を救った女性領主「井伊直虎」。
戦国の世、男子が家督を継ぐのが慣わしであり、大名家に生まれた女性は「家」を守るための「政略結婚」に利用される運命でした。
そのような時代にありながら井伊家の家督をあずかり、「井伊家」を存続、発展させた稀有な女性領主です。
しかし、よほどの歴史通でない限り「井伊直虎」を知る人はいません。

◆出生から家督相続まで。

書物の類や歴史書には彼女の生誕に関する記述は残っていません。井伊直虎は1530年ころの出生と言われています。
第22代井伊家当主の井伊直盛と友椿尼との間に生れたとされますが、友椿尼は出家の身であり、「子をなす事」は当時の常識では考えられません。母親は「不詳」とした方がロマンチックで想像をかきたてます。
井伊直盛には家を継ぐ男子がいませんでした。直盛は生まれた娘に「次郎法師」と命名します。次郎法師(後の井伊直虎)6歳くらいの時、従弟の子である井伊直親(当時8歳)を婿養子に迎える約束をしました。許嫁です。しかしこの縁組を心良く思わない今川家の与力、小野道高が「井伊家は武田と密かに通じている」との噂(デマ)を流しました。
それを聞いた今川義元は「井伊家は謀叛を企んでいる」と信じ込み、次郎法師の許嫁「井伊直親」の父親である直満とその弟の直義を自刃させました。時は1544年12月。「力が正義」の戦国の世、悲しい出来事ですが二人の運命でした。今川義元の怒りが井伊家全体に及ぶ事を心配した重臣達は「直親」をかますに隠して運び出し渋川の東光院に隠しました。
さらに念には念を入れて今川の目が届かないであろう信州伊那郡にある「松源寺」に匿いました。信州で臥薪嘗胆。そして10の年月が流れます。小野道高が没した次の年(1555年)、直親はやっと今川領への帰参を許されました。直親が信州に逃亡して(隠れて)いた時に井伊家一族の娘と結婚していたため、次郎法師(直虎)との婚姻の約束は守られませんでした。
次郎法師はこの時年齢が25歳位であり、婚約の話は無かったものと諦めていたのでしょうか、それとも出家はしていたが、許嫁を待っていたのでしょうか、記録がないので次郎法師(直虎)の真意は闇のかなたにあります。時が移り1560年、桶狭間の戦いで今川義元は織田信長に討たれます。この時井伊家は今川方であり、井伊家の当主である直盛も戦いで討ち死にします。義元なきあと氏真が今川の家督を継ぎますが、悲しいかな若い氏真には義元ほどのカリスマ性はありませんでした。
そんな今川家の混乱に乗じ、三河の松平元康(後の徳川家康)は尾張で頭角を現して来た織田信長と同盟を結びます。井伊家も討ち死にした直盛の跡目を直親が継ぎ当主となりました。今川家の弱体化や松平家の離反で遠江の豪族は動揺します。井伊家の跡目を直親が継いだ事が気に入らない井伊家の家臣、小野道好らは今川氏真に「井伊直親は松平元康と通じ、今川家を裏切っている」と根も葉もない事を言いふらします。氏真はその讒言を信じて直親を駿府に呼び出そうとします。しかし駿府に向かう途中に今川の重臣、朝比奈泰朝の軍に囲まれ無念の死を遂げます。(1556年 直親28歳で没)。この時家督を継ぐ虎松(後の井伊直政)はまだ2歳。隠居していた直平が後見役になりました。1563年、飯尾連龍、天野一族らが今川に対して謀反を起こします。今川氏真の命を受け、井伊直平は犬居城を攻めるべく高齢をおして出陣しましたが飯尾連龍の妻、お田鶴の方に毒殺されます。その後、飯尾連龍は徳川方に寝返りました。
これを知った今川氏真は井伊家に曳馬城(飯尾氏の居城)を攻めるよう命じます。この戦いは熾烈を極め、井伊家の主だった重臣は討ち死にしました。この時、井伊家には後を継ぐ男子がなく(虎松はまだ幼少)、1565年に出家していた次郎法師がピンチヒッターとして登場。女性であることをカモフラージュする勇ましい名前「井伊直虎」と名乗りました。

◆井伊直虎、井伊家を救う

直虎は養母となり虎松を育てます。当時教養の高い人は「お坊さん」でした。そのため、お寺で虎松は家臣の子供たちと一緒に学びました。そしてこの経験が、井伊家臣団の結束を強くすることに役立ちます。当時の大名や豪族たちの目標は「家を継続、発展させる事」でした。
「天下を取る」などの野望は一握りの大名しか持っていませんでした。家を守り発展させる為には「兵を強くする」「産業を発展させる」「家臣団の教育」をする事です。そして農民を守る事も大切でした。
そんな訳で、遠江の農民による徳政令発布の願いを今川家は認めます。直虎は悩みます。徳政令を認めれば農民は救われるが商人には死活問題です。板挟みの解決策。徳政令を引きのばし、根回しに動きます。そして完全な根回しの後に「井伊谷徳政令」を1568年11月に発布しました。この見事な領内経営の為「女地頭」とも言われています。遠江の豪族たちは今川に残るか武田に与するか、はたまた徳川につくか迷います。徳川につく事を決断した直虎は「正しい決断をした」と言えるでしょう。これで井伊家は存続する事となりました。その後、成人した虎松(井伊直政)は徳川家康に認められ徳川家の重臣となりました。そして井伊家は幕末まで存続します。

◆動の「お田鶴の方」、静の「井伊直虎」。直虎の人間像

直虎の言葉は歴史書の類には残っていません。その行動から人物像を推測してみます。この時代、遠江の「女城主」は2人いました。お田鶴の方は勇猛果敢な女性でした。城攻めにあいますが長刀で応戦し戦死します。一方の直虎、静かで人を魅了する人格者です。許嫁が結婚して戻って来た時も、取り乱さずにいたのでしょう。しかも許嫁の嫡男である直政を手元に置き育てたのは心の広い人です。徳政令を長引かせる根回しは根気と辛抱がいります。男でもできない仕事を無事にやり遂げます。そして家督を許嫁の許嫁の嫡男、直政にゆずり、龍譚寺にて静かな余生を送りました。
(記事 奈良の大仏様)
2016年12月 井伊直盛の娘に出家して「次郎法師」となった女性は実在していたようですが、次郎法師が井伊直虎になったことを示す史料は存在していないようです。サイト管理人は、井伊家に女城主が実在しなかったとしても、おんな城主 直虎のような物語が好きです。


  • このエントリーをはてなブックマークに追加

ページ上部へ戻る