千代(見性院)

千代は1557年に生まれました。近江国で生まれたという説が有力です。本名は「千代」または「まつ」ともいわれます。さまざまな逸話から、良妻賢母の手本とされています。
千代は、山内一豊の正室として嫁ぎました。一豊と千代の間には、一人娘、与祢姫が生まれましたが不運にも長浜地震の際に、与祢姫は夭折しました。
その後、二人のあいだに子供は生まれませんでした。その代わりとして、捨て子を拾い、育てました。その子が長浜城下で拾われた湘南宗化です。
山内夫婦は湘南宗化を世継ぎとすることも検討しましたが、家臣の忠誠を保つことは難しいと判断し、妙心寺に入れました。
一豊は、弟・山内康豊の子山内忠義を山内家の養子とし、山内一豊が1605年に死去すると、山内家は山内忠義が家督を継ぎました。千代は、湘南宗化の妙心寺、高台院の屋敷の近くに移り住み、ここで余生を過ごしました。千代は引き続き、豊臣家、徳川家への働きかけを続け、山内忠義にも、徳川幕府への忠誠を尽くすよう諭し続けました。
千代は1617年に六十一歳で死去しました。愛読した和歌集は、山内忠義へ贈られたあと、幕府に献上されました。
女性が家庭を守るという考えが浸透したのは江戸時代以降であり、戦国の世では戦国武将の出世は妻次第であるといわれています。内助の功で有名な千代が絡んだ逸話は次のとおりです。
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織田信長の馬揃えときに、一豊は見事な駿馬であるが、誰も手が出せない程の高額の名馬を見かけます。一豊は目にとめた名馬を欲しがりましたが、お金がありません。
千代は嫁入りの持参金を一豊に渡して、名馬を買うことを勧めます。
一豊はその駿馬を手に入れ馬揃にでました。その姿は信長の目に留まり、一豊が出世するきっかけとなりました。
関ヶ原の戦いでは、一豊が徳川家康の上杉征伐に従軍した際に、千代は西軍側からの夫に宛てられた勧誘状と、自らが書いた密書を添えて送りました。
千代の手紙には、大坂で三成挙兵の情報と、大阪方からの書状を未開封で家康に渡すようにと書いてあり、一豊が家康に忠節を尽くすことで、大阪方の人質になっても自害する覚悟があるという内容でした。
千代の手紙を読んだ一豊は、西軍から届いた書状を未開封で家康に届けることで、自身の潔白を証明しつつ、家康の信頼を得ることに成功しました。
軍議では掛川城を家康に明け渡すと発言。いち早く東軍に参加することを表明することで、ほかの諸将も、家康に味方して三成を討つ腹を決めました。
そのため、関ケ原の戦いではたいした軍功がなかったにもかかわらず、戦後の論功行賞で、一豊は土佐二十四万石を与えられました。
一豊が六十歳で亡くなると土佐を引き払い、剃髪して見性院と号します。晩年は、京都で和歌を親しみ余生を過ごしたといわれています。享年六十歳。一豊と同じ年齢で、その生涯を閉じます。


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