立花ぎん千代

戸次道雪の一人娘として生まれ、名前に含まれる「ぎん(誾)」の字の意味は、謹んでひとの話を聞く子という意味を込めて、肥前の僧侶である増吟が名付けました。
ぎん千代の生家である立花家は大友家の流れで、代々大友家の筑前方面の拠点としていました。七代目立花鑑載のとき主家大友氏に対し謀反を起こしましたが失敗。立花家は一旦断絶に陥りました。立花家を討伐した戸次鑑連が大友家の当主である大友宗麟の命により、立花家を再興します。
男子に恵まれない道雪は1575年、主君・大友宗麟の許しを得て、ぎん千代に立花家の家督を譲ります。ぎん千代はわずか七歳の女当主となりました。
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数年後、ぎん千代の婿として望まれ、立花城に入ったのが高橋紹運の嫡男の千熊丸。のちの立花宗茂でした。
道雪は1585年に病に倒れ、立花家は立花宗茂が家督を継ぎました。その後、島津家が九州を北上した際、衝突しましたが、これを死守。豊臣秀吉から感状を与えられました。
豊臣秀吉の九州平定の際に活躍して十三万石を与えられ柳川城に入城。一大名となりました。立花宗茂の甲冑や藩主夫人の調度品などは今でも立花家の遺品が残る立花家の邸宅跡「御花」に展示されています。
父譲りの武勇に長けた、ぎん千代は多くの武勇伝を残しています。
立花宗茂が不在の間、柳川城の守りは妻であったぎん千代が取り仕切っていました。侍女たちも同様に訓練され、敵の攻撃に備えたといわれます。
ぎん千代は、関ヶ原の戦いの際も、柳川城西側において鉄砲隊など備えを固め、鍋島家の水軍を近づけませんでした。また南側に攻めよせる加藤清正軍に対しても威嚇し、清正軍の進路を変更させたといわれています。
その後、関ヶ原の戦いでは立花家は西軍についたため、戦いの後は所領を没収され、立花宗茂は浪人となり、肥後で隠棲生活を余儀なくされました。
ぎん千代は1602年に三十四歳の若さで死去。やがて、立花家は徳川家康方につき、大坂の陣を経て、立花家は旧領柳川城に戻ることができました。
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