甲斐姫は、1572年に忍城城主・成田氏長の長女として生まれました。甲斐姫は美貌の持ち主で、非常に武勇に優れていた姫でした。男子であれば、天下に名を轟かせるまでの人物であったと評されています。
豊臣秀吉が後北条氏を攻撃した小田原征伐の際に、父・成田氏長は小田原に向かいました。忍城には城代として甥の成田泰季が、兵と領民を合わせ約三千で篭城。甲斐姫も一族とともに忍城を守ります。
石田三成が二万人を超える大軍を率いて忍城に侵攻すると、水攻めの戦法を採用します。総延長28kmにも及ぶ広大な堤防を築きましたが、堤が決壊して失敗します。浅野長政の軍勢が援軍として差し向けられると、作戦を力攻めに変更して本丸に突撃しました。
甲斐姫は自ら鎧兜をまとい二百余騎を率いて出陣。浅野家の軍勢の侵入を阻止し、甲斐姫も多くの敵将を討ち取りました。何度か豊臣勢の侵入を阻止しています。
しかし、本戦の小田原城で北条氏直が降伏しました。忍城の成田勢は籠城を続けていたため、秀吉の命により城主の氏長が使者を派遣して忍城の開城を指示します。
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その後、成田家は蒲生氏郷に預けられました。氏郷は成田家に福井城の守備を一任し一万石の地を与えます。
伊達政宗の軍勢を迎え撃つために蒲生頼郷の加勢として、成田氏長が出陣すると、蒲生家からお目付け役としてきていた浜田将監と弟・浜田十左衛門が謀反を起こして福井城を占拠しました。
甲斐姫はいったん追い詰められましたが、攻勢に転じると浜田勢は総崩れとなり、浜田兄弟を討ち取ります。
甲斐姫の武勇伝を聞いた秀吉は、甲斐姫を大変気に入り側室として迎えました。成田氏長は甲斐姫の口添えにより、下野国烏山城主として二万石の大名になりました。
大坂城における側室としての甲斐姫の生活は定かではありません。醍醐の花見の際、甲斐姫が詠んだとされる歌が残されており、豊臣秀吉が亡くなる頃までは生存していたものを思われますが、その後の記録はなく、甲斐姫の没年は不詳です。
甲斐姫は淀殿の依頼を受け、豊臣秀頼の養育係を務めた、これまでの武勇伝から隠密的に働いた、豊臣秀頼娘天秀尼の養育係を務め大坂の陣の後に共に鎌倉の東慶寺に入ったなどの説があります。
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