春日局

明智光秀の重臣であった斎藤利三の娘として生まれ、お福と呼ばれます。
お福が四歳のとき本能寺の変で、父親の利三は明智光秀に従い、山崎の戦いにおいて、羽柴秀吉に敗れました。このとき丹波亀山城にいたお福は、母と共に京に逃げたあと、母の縁戚である公家などのもとに身を寄せました。
十七歳のときお福は、縁戚である稲葉一鉄の養子・稲葉正成の後妻として嫁ぎ三人の子どもに恵まれます。
稲葉正成は、小早川秀秋の家老として仕えていましたが、関が原の戦いのあと小早川秀秋は急死。小早川家が断絶したため、稲葉正成は浪人となりました。
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この頃、三男を生んだばかりのお福は、京に掲げられていた徳川秀忠の子の乳母募集の高札を見て、応募したといわれています。
そして稲葉正成と離縁しました。妾を置いたことから離縁した、または、乳母になるために離縁したといわれる説があります。
お福は乳母に選ばれ江戸城に住むことになりました。海北友松らの推薦、お福が京風のたしなみを習得していたことを徳川家康が理解し、乳母となることを後押ししたといわれています。
かくして、お福は三代将軍徳川家光の乳母として懸命に養育します。徳川秀忠、家臣らが二男・忠長を次期将軍に推す機運が高まる頃、危機感を強めたお福は、「お伊勢参り」と称し、江戸城を出ると駿府城にいる徳川家康に、徳川家光を次期将軍とすることを直訴しました。これを受けて家康は江戸に向かったついでに江戸城に立ち寄り、将軍のみが座る壇上に徳川家光を呼び寄せ、次期将軍として定め、将軍長子継承の原則を定めました。
家光はこの春日局の行動に大変感謝したそうです。お福の子、稲葉正勝も徳川家光側近となりました。お福はまた、徳川家光の側室選びに心を配り、嫡子誕生に苦心しました。
家光が疱瘡になったとき、お福は生涯薬を飲まない誓いを立て、水を浴びて祈ったといいます。
家光の成長とともに、お福の江戸城での立場はゆるぎないものとなり、大奥での権力は絶大なものとなります。
家光の妹・和子が、時の天皇・後水尾天皇に嫁いでいたこともあり、家光はお福に様子を見に行かせますが、身分は斉藤家のお福。宮中に入れる身分ではありませんでした。
家光は将軍家の威光をもって、お福を縁のある三条西実条の仮の妹という名目で宮中に入れました。これに対して後水尾天皇はお福に「春日局」の称号を与えました。
天才政治家・松平信綱、大剣豪・柳生宗矩、大奥の長・春日局。家光を支えた鼎の三足の一人とあげられています。
お福が死去する前に薬を飲まないことを知ると、家光は自ら薬を飲ませようとしましたが、お福は飲んだふりをして誓いを守りました。六十四歳で閉じます。
辞世の句は

「西に入る 月を誘い 法をへて 今日ぞ火宅を逃れけるかな」


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