豪姫

豪姫は、1574年尾張国荒子に前田利家とまつの四女として生まれます。
利家夫妻が親しくしていた秀吉とねねには子どもがいなかったため、豪姫は秀吉の養女として出されました。
豪姫は秀吉夫妻から愛情たっぷりに育てられます。「もし豪姫が男であったならば関白になっただろうに」といわしめるほど、秀吉は豪姫を溺愛していました。美しいだけでなく聡明で大胆であったといわれています。
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豪姫は、1588年に十五歳のときに、宇喜多秀家の妻として嫁ぎました。宇喜多秀規をはじめとする三男二女(二男一女とも)を生みました。豪姫は生涯を通じて秀吉に愛され、北政所、淀殿とともに遺産を贈られています。
秀吉にかわいがられ、期待されていた秀家・豪姫夫妻でありましたが、関ヶ原の戦いで秀家が石田三成らの西軍方についたため、宇喜多家は改易の対象となりました。
秀家は薩摩にわたり島津家に匿われます。やがて、島津家が徳川家康に降参し、秀家は助命を条件に息子とともに八丈島に配流となってしまいます。豪姫は「自分も一緒に」と願ったが、許されなかったといいます。
秀家とその一行が暮らす八丈島での生活は大変苦しいものでした。八丈島の様子を知った豪姫の実家である前田家は、一年おきに白米や衣類、雑貨、薬を、八丈島に暮らす秀家らに送ることを幕府に申し出ます。仕送りが許可されると、豪姫や秀家が亡くなった後も続けられ、明治の時代に至り、宇喜多一族が赦免されるまで続けられました。
夫や息子らが八丈島で暮らす間、豪姫は、兄・前田利長が治めていた加賀へ戻され、化粧料として千五百石を与えられていました。このとき金沢にはキリシタン大名、高山右近が住み、多くの藩士がキリシタンの影響を受け、豪姫も家臣とともに洗礼を受けました。その後、豪姫は、余生を金沢で過ごし、夫や息子たちに再会することができないまま、1634年に豪姫は六十一歳で死去しました。


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