まつ(芳春院)

織田信長の家臣、槍の又左などの異名をとる前田利家の正室。良妻賢母で利家や前田家を支えました。
まつは、1547年に尾張において篠原一計の娘として生まれました。まつが幼いころに父親を亡くし、親戚関係にあった前田家にまつが四歳の時に引き取られたことから、十二歳のときに、従兄弟にあたる利家に嫁ぐことになります。
結婚した翌年に利家が、信長のお気に入りの茶坊主、十阿弥を斬ったことから、出仕停止を言い渡されます。
利家は信長に無断で桶狭間の戦いに参加して戦功をあげますが、帰参は許されませんでした。森部の戦いでも無断参戦。ここでも豪傑を討ち取るなど功績を挙げると、ようやく帰参を許されました。約二年間にわたる苦しい浪人暮らしの生活を二人で乗りこえました。
まつと利家は大変、仲むつまじく、二人の間には二男九女の子が生まれています。
[ad#ken1]
その後、利家は順調に信長の下で出世。秀吉とは安土城城下で隣に住んでいたこともあり、夫婦ともども親しく、自分の娘・豪姫を養女に出す間柄でした。
本能寺の変後の賤ヶ岳の戦いで、友の秀吉に味方するか、若い頃から親父どのと敬愛する柴田勝家を助けるか、この合戦は利家にとってつらい闘いでした。
まつは利家に秀吉側につくことを薦め、秀吉方に寝返る決意をさせたようです。
その後、秀吉の臣下となり豊臣政権の重臣として活躍します。加賀、能登、越中の三ヵ国の大半を領地とした加賀百万石の大藩が成立しました。
まつは、醍醐の花見の席において、秀吉の側室と同列に並び異例の扱いを受けています。秀吉の死後まもなく利家が病死すると、まつは出家して芳春院と号しました。
利家が亡くなった後も、まつは前田家の為の献身的に働き、前田家の家督を継いだ利長が徳川家康に謀反の嫌疑をかけられた際には、まつは、一戦を交えると主張する利長を説き伏せ、その代わりとして自身が人質となって江戸に下り、十四年間を過ごしました。
前田利孝の大名取り立てを江戸幕府に直訴するなど、まつは前田家のために尽力しました。
利長の死後、まつは1617年に金沢城において七十一歳で死去しました。


女性たちの戦国時代に戻る

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

ページ上部へ戻る