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    Categories: 女性たちの戦国時代

淀殿

幼名は茶々。淀殿は浅井長政とお市の方の長女(浅井三姉妹)として生まれました。
浅井長政が織田信長に攻められると、居城小谷城が落城する際に、母妹らとともに信長の下に引きとられます。伯父の織田信包のもとに身を寄せました。
本能寺の変の後、母・お市は、1582年に織田家重臣、柴田勝家と再婚し、淀殿は母や妹とともに北の庄城に移りました。
その後、秀吉と勝家が対立。秀吉の攻撃により勝家とお市の方は自害しました。淀殿と妹たちは城外に出て、秀吉の保護を受けます。織田有楽斎の保護の下、安土城に住みました。秀吉は、お市の方に憧れていたとされ、お市の方によく似ていた淀殿を側室に迎えました。
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秀吉の寵愛を得て茶々は長男の捨丸(鶴松)を生みました。出産祝いとして、茶々は淀城を賜り、「淀殿」と呼ばれました。
鶴松はもともと病弱で早世してしまいます。1593年に二男の拾(後の豊臣秀頼)を生みました。
秀吉の死後、淀殿は豊臣秀頼の後見人として豊臣家の実権を握ります。関ヶ原の戦いの前に、石田方が切望した、豊臣家二代目の秀頼のお墨付きの書状の出状や、秀頼の出陣などを淀殿は許さず、豊臣家は戦いを静観する姿勢を徹底しました。
関ヶ原の戦いで東軍が勝利。徳川家康は豊臣家の領地を関ヶ原の戦いの恩賞として諸将に与えたため、豊臣家は六十五万石に大幅に減少しました。
家康が江戸幕府を開いて秀頼に対して臣従を求めましたが、淀殿は家康には従えないと、拒否しました。徳川秀忠とお江の娘・千姫と秀頼の結婚などありましたが、秀忠が二代将軍となったことで、豊臣家は幕府との対決姿勢を前面に押し出し始めます。
1614年方広寺鐘銘事件をきっかけとして大坂の陣が勃発。
真田信繁・後藤又兵衛・長宗我部盛親・毛利勝永・明石全登ら浪人を多数集め、家康と戦います。徳川方の大坂城本丸への砲撃を受け、講和を結びました。
1615年大坂夏の陣で大坂城は落城、淀殿は豊臣秀頼と自害して果てました。一時の栄華を極め、天下統一を果たした豊臣家は、淀殿とともに滅亡しました。


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