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    Categories: 武将紹介 宇喜多家

明石全登

明石景親の子。景親は浦上宗景の家臣でしたが、宇喜多直家に内応します。以後、宇喜多家の客将となり、直家の病没後は宇喜多秀家の補佐を務めました。
明石全登(あかしたけのり)は景親が亡くなると家督を相続。全登は備前の大名・宇喜多秀家の姉を室として、四万石の知行でしたが、「宇喜多家騒動」で家臣の多くが出奔すると、執政として宇喜多家中を取り仕切ります。秀家の岳父である太閤・豊臣秀吉の直臣としても知行を貰い、併せて十万石を拝領しました。
通称は掃部(かもん)で、明石掃部ともいわれています。宣教師を自分の屋敷に住まわせて保護するほどの熱烈なキリシタンでした。(洗礼名はヨハネ、ジョアン、ジョアニーという説があります)
関ヶ原の戦いでは西軍の副将格として宇喜多軍を率い、猛将・福島正則と激戦を繰り広げます。小早川秀秋の裏切りにより西軍が戦いに敗れると、宇喜多家は領地を没収。秀家の身柄は一時的に島津氏、その後、八丈島に幽閉されました。
浪人となった全登は、キリシタン大名であり、母が明石一族である黒田官兵衛もとに、身を寄せたとも、キリスト教徒たちが多く存在する播磨に潜伏していたともいわれています。
十五年後、全登は幕府によるキリシタン弾圧に耐えかね、大坂城に参陣。全登の参戦を知った全国のキリシタンのうち、約八千人が大坂城に集まったといわれています。
大阪五人衆の一人として活躍。最終決戦で徳川家康本陣への突入を狙った奇襲を敢行しますが、豊臣秀頼の不出馬を初めとする様々な原因によって企画倒れとなり、真田信繁の壮絶な討死によって作戦は実行されませんでした。
味方の壊滅を知った全登は水野勝成、松平忠直、本多忠政、藤堂高虎の軍勢からなる包囲網に突撃。その後、全登の消息は不明で、大坂の陣で討ち死にしたとも、逃亡したともいわれています。

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