勝永は、大坂の陣において真田信繁と同じくらいの高評価を得た戦国時代の武将です。現在の人々には真田信繁の方が広く認知されている節がありますが、戦において兵を統率する力など、高い能力がありました。
勝永は、1577年に豊臣秀吉に仕えた森勝信の嫡男として生まれました。
父・勝信は若いころから秀吉に仕え、秀吉の出世と共に勝信の身分も上がります。豊前小倉で十四万石を賜り、勝永も豊前国内で四万石をもらいました。
勝永は毛利という名字ですが、中国地方の大名である毛利元就の毛利家とは関係はありません。勝永は元々森姓を名乗っていたものの、毛利に改めるようにと秀吉に命じられたという説もあります。その他には、“もり”という呼び方が間違った伝聞により“もうり”という認識になってしまったことから、毛利姓に変えたのだという話も残っています。
1597年には朝鮮半島における慶長の役において、勝永は、蔚山での戦いでは素晴らしい戦いを見せました。その後には、関ヶ原の戦いにも参戦し、伏見城の戦いでも目覚ましい活躍を見せ、その時の西軍の総大将を務めていた毛利家(勝永の毛利家とは関係がなく、毛利輝元の毛利家である)より三千石が加増されています。
関ヶ原の戦いで敗れた後、勝永は父の勝信と一緒に加藤清正の元において蟄居をすることになりますが、ほどなくして土佐の山内家に身を寄せることになりました。山内家と言えば、その頃の当主は山内一豊。彼は織田家や秀吉と親しくしていたので、千石の知行をもらっていました。そんな山内家に身を寄せていた勝永は、さほど不自由をしない暮らしをしていたようです。
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勝信の死から三年後、方広寺鐘銘事件をきっかけにして、豊臣秀頼から手紙が来ました。それは、勝永の人生を変えるかもしれない手紙となります。その内容は、徳川家康と戦をするかもしれないから、その用意として大坂城に入って欲しいという内容でした。
勝永自身は土佐で朽ち果てることなく、一花咲かせたいという気持ちがありました。秀頼からの手紙を受けて、豊臣家のためにという気持ちが募り、参戦を決意します。
しかし、妻子を連れて土佐を脱出することができず、残された家族のことを思うと簡単に豊臣の誘いに応じることができませんでした。
勝永の妻は「武将たる者が妻子の情にほだされて武名を上げようとしないのは、真に恥ずべきこと。残る者が心配ならば私たちも海に身を投じる覚悟です」と悩む勝永を後押します。勝永は大坂城に入城を決意。嫡男の勝家とともに大坂へ向かいました。
勝永父子が大坂城に入ったことが判明すると、勝永の妻と次男は捕縛されます。土佐藩主の山内忠義が処分を尋ねると、家康は勝永の妻子を罰してはならないと命じました。このため忠義は高知城に招いて厚遇したと伝えられています。
大坂城へ入った毛利勝永は、豊臣家の譜代家臣ということもあり、諸将の信望を得て大坂城の五人衆と称されます。大坂冬の陣では、真田信繁らと共に出撃策を唱えましたが、聞き入れてもらえませんでした。
勝永が信繁とともに戦い、信繁に匹敵する活躍を見せたのは、大坂夏の陣です。
天王寺口の戦いで、兵四千を率いて徳川家康本陣の正面に布陣します。
戦闘が始まると本多忠朝や小笠原秀政らを瞬く間に討ち取りました。
突撃を続けて奮戦する勝永は、続いて浅野長重・秋田実季・榊原康勝・安藤直次・六郷政乗・仙石忠政・諏訪忠恒・松下重綱・酒井家次・本多忠純といった部隊を次々に撃破し、遂には徳川家康の本陣に突撃するという大活躍を見せます。
この日の勝永は、銀の輪貫(わぬき)の前立の兜をかぶり、秀頼に賜った錦の陣羽織を身につけ、馬上で見事な采配をふるっていました。その鮮やかな指揮ぶりに、黒田長政は、感歎の声を漏らしたそうです。
家康の旗本隊を切り崩した真田隊が壊滅して戦線が崩壊すると勝永は完全に孤立。撤退を決意します。退却においても藤堂高虎隊を撃ち破り、井伊直孝や細川忠興らの攻撃を防ぐなど、際立った強さを見せました。
大坂城へと帰還した勝永は、秀頼の介錯を行った後、自決して果てました。義を貫いて戦国最後の一戦に賭けた漢の見事な最期でした。