真田守信

片倉守信(真田大八)は真田信繁の次男として、父・信繁の幽閉先である九度山で生まれました。幼名は大八。
大坂夏の陣の戦場で、信繁は伊達政宗の重臣である片倉重長に子供を預けました。伊達政宗から信繁の子供達を引き取って良いと許可をもらうと、重長は信繁の子、一男四女を保護します。仙台真田系図には、保護された子供として大八・梅・おかね・菖蒲の名前が記されています。
その後、片倉家の家臣として召し抱えられ、真田守信を称しましたが、大坂の陣以降、豊臣方の男子は処刑の対象だったため、守信が生き残れたのは異例でした。信繁の男子が生きていることが幕府に知れれば、処刑の対象になるという恐れから、伊達家は「大八は幼少のころ京で暮らし、石合戦で当たり所がわるく亡くなった」と虚報を流して守信の存在を隠していました。
幕府から伊達家に守信の調査が命じられた時にも、伊達家は守信を「真田信尹の次男・政信の子」だと偽証します。その際、守信は片倉守信と改名し、三百石を与えられて仙台藩士となりました。守信は伊達騒動の渦中に五十九歳で亡くなりました。
守信の死後、家督は長男である片倉辰信が継ぎます。辰信の代において、「既に将軍家を憚るに及ばざる」と内命を受けたことで、公に真田姓を名乗ることが許されました。守信の子孫は仙台真田家として続きます。
仙台真田氏九代目の当主真田幸歓が、幕末から明治維新にかけて仙台藩の藩政をよく支えました。仙台藩救済の献策をいくつも唱え、藩存続ために奔走しています。時流を見据えた献策や洋式兵学者として砲兵術の研究担当・藩の砲術兵法全般の師範など、文武両道の活躍。幸隆、昌幸、信繁の名将の血脈を引き継いでいる大人物でした。











