真田信繁の長男。信繁が関ヶ原の戦いで流されることとなった紀伊国九度山で生まれます。祖父・真田昌幸の名を逆にして幸昌と命名されました。
父・信繁とともに九度山を脱出して大坂城へ入り、大坂冬の陣に出陣。真田丸での戦いでは、銃撃を受け混乱する敵勢を果敢に追いたて戦功をあげます。見事な初陣を飾りました。
大坂夏の陣における最後の戦い天王寺の戦いを前にして信繁は、豊臣秀頼を出馬させるために、そして人質の意味を込めて、幸昌を大坂城へ遣わします。幸昌は父のもとで討ち死にしたいと訴えるも、命令には逆らえず、やむなく大坂城に引き返しました。これが真田親子の最後の別れでした。
信繁はこの合戦で激戦の末、討死。城に戻った幸昌も大坂城が落城。
幸昌は若年であり、また豊臣に特別な恩顧もないことから速水守久から脱出を勧められます。しかし幸昌は主君の秀頼が切腹すると、「我は真田左衛門佐信繁の倅なり」と叫んで介錯を加藤弥平太にして切腹。享年は十三から十六の間といわれています。真田の漢として散った若武者でした。
現在の大阪城の淀殿、豊臣秀頼らの自害の地に建てられた地蔵の前に、淀殿や秀頼、大野治長と並んで真田幸昌の名前も記されています。
真田幸昌
真田家