戦国武将の名刀、名槍一覧 100選

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戦国武将 名言集

刀は武士の魂といわれます。戦国時代の武将が愛用していた刀や槍を紹介します。

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天下三名槍(てんかさんめいそう)

一、蜻蛉切(とんぼぎり)

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徳川四天王の一人でもあり、戦国時代きっての武人とされた本多忠勝が、鹿の角をあしらった兜とともに愛用したのがこの蜻蛉切といわれています。

蜻蛉切の名前の由来は、あまりの鋭さのゆえに、槍の穂先に止まった蜻蛉が切り落とされたため、蜻蛉切という名がついたそうです。

通常の槍は4.5メートルほどですが、蜻蛉切りは柄の長さが6メートルあったといわれています。生涯においてかすり傷一つ負わなかった忠勝にふさわしい名槍でした。

二、日本号(にほんごう)

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大身槍(刃長一尺以上の長身の槍)で樋(刃中央の溝)に優美な倶梨伽羅龍の浮彫があります。日本号に対する評価は非常に高く、槍でありながら朝廷から正三位の位を授けられています。

正親町天皇から室町幕府十五代将軍・足利義昭に与えられ、織田信長、豊臣秀吉、福島正則へと受け継がれました。

日本号には呑取(のみとり)と呼ばれるようになった逸話があります。

黒田官兵衛の家臣である母里太兵衛が、福島正則のところへ使者として来ることになり、お酒が好きな政則は太兵衛に酒をすすめます。太兵衛も酒豪の者で有名でしたが、使者という立場上、酒の勧めを固く断っていました。

正則はさらに酒を勧め正則は「飲み干せたならば好きな褒美をとらす」という言葉とともに、黒田家を侮辱するような発言を繰り返して太兵衛を挑発しました。

黒田家の名を侮辱するような正則の挑発に腹を決めた太兵衛は、大杯に注がれた酒を一気に呑み干します。

そして「好きな褒美をとらす」との言葉を受けて、太兵衛が所望したのが日本号でした。正則が秀吉から拝領した家宝でしたが、武士に二言はないということで、槍を譲り渡しました。

黒田節の一節に登場する「酒は呑め呑め 呑むならば 日本一(ひのもといち)のこの槍を 呑み取るほどに呑むならば これぞ真の黒田武士」とは、呑取(日本号)のことを指しています。

三、御手杵(おてぎね)

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駿河国嶋田の刀工、五条義助が鍛えた大身槍。

室町時代に下総国結城の大名・結城晴朝の愛槍で、結城家を象徴する家宝でした。

全長は約3.8m。常人では振り回せないほど巨大な槍で、結城秀康が使用したことで知られています。「西の日本号、東の御手杵」と並び称され、さらに蜻蛉切が入って天下三名槍と呼ばれるようになったそうです。東京大空襲によって焼失、三名槍で御手杵だけが失われています。

天下五剣(てんがごけん)

 

 

四、童子切安綱(どうじぎりやすつな)

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天下五剣に数えられる名刀にして、その筆頭。酒呑童子を斬ったという伝説があります。足利将軍家の家宝として伝わったのち、豊臣秀吉、徳川家康、徳川秀忠らの手に渡りました。現在は日本の国宝に指定されている日本刀。大包平と共に「日本刀の東西の両横綱」と称され、最も優れた名刀と評価されています。

五、三日月宗近(みかづきむねちか)

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天下五剣の中でも最も美しいといわれている宝刀です。足利将軍家に伝わる刀で、松永久秀と三好三人衆が足利義輝を襲撃したときに、義輝が奮戦して振るった刀の一振りだといわれています。将軍家の秘蔵の名刀として継承され、「名物中の名物」とも呼び慣わされました。義輝亡きあと三好政康、豊臣秀吉、秀吉の正室高台院(寧子)、徳川秀忠に渡り、徳川将軍家の所蔵となっています。

刃長80.0センチ、反り2.7センチ。平安時代の刀工三条宗近の作。刃文に三日月形の打除けが数多くみられることが、「三日月」の号の由来です。

六、鬼丸国綱(おにまるくにつな)

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初代執権北条時政から十四代執権である北条高時、新田義貞、足利尊氏の手に渡り、時はさらに流れ、室町幕府十五代将軍である足利義昭から織田信長へ、信長から豊臣秀吉の手に渡り、秀吉は鬼門よけの意味を込めて京都の本阿弥光徳に預けたといいます。

本阿弥光徳は徳川家康に献上しましたが、家康も秀忠もそのまま本阿弥家に預けたままにしていました。

皇太子が御誕生した節に御所に献上されたが、皇太子が崩御したので「不吉な太刀である」とのことで再び本阿弥家に戻されます。

明治十四年になってようやく、鬼丸は明治天皇のもとに置かれるようになり、以後は皇室の御物として皇室の所蔵物になりました。

七、大典太光世(おおでんたみつよ)

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平安時代後期の筑後の刀工・典太光世の作。

足利将軍家に伝わった宝刀です。将軍家が没落すると豊臣秀吉の手に渡り、そこから前田利家に移ると、前田家第一の家宝として代々伝えられました。一説には秀吉から徳川家康に渡ったのち前田利家に伝わったともいわれています。

大典太光世には退魔の能力があると考えられた逸話が残されています。

ひとつは伏見城のお話です。伏見城の千畳敷を深夜に歩くと、何者かに背後から刀の鞘をつかまれて身動きが出来なくなるという不吉な噂が、大名たちの間で広がっていました。

その噂を聞いた前田利家が、「武士がそんなことを恐れていてはいけない、自分が事の真相を究明する」といいます。

これを聞いた秀吉が持たせてくれたのが魔除けの刀、大典太光世です。利家が深夜、千畳敷を訪れても特に何も起こりませんでした。それ以降は不吉な噂は払拭されました。

この太刀を枕辺に置くとたちまち病気が快方に向かった、という逸話もあります。

八、数珠丸(じゅずまる)

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太刀銘で「恒次」の銘が切られており、平安時代の刀工、青江恒次の作とされます。

日蓮が身延山へ入山したときに信者より護身用として献上されました。日蓮が、この刀の魅力にとりつかれ、数珠を付けて魔よけに使っていたことからこの名前が付いたそうです。日蓮没後は他の遺品とともに身延山久遠寺に保管されていましたが、のちに行方不明となりました。大正年間に宮内省の刀剣御用掛に発見され、現在は寄進先の兵庫県尼崎市の本興寺が所蔵しています。

名刀一覧

九、愛染国俊(あいぜんくにとし)

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もとは豊臣秀吉が所持していました。秀吉より、森蘭丸の弟、森忠政に与えられます。

忠政が亡くなると徳川家光に献上しました。のちに家光は養女・大姫を前田家に嫁がせます。家光は大姫が生んだ二歳の赤ん坊、前田綱紀に愛染国俊を授けました。以後、前田家に伝来。

十、会津新藤五(あいづしんとうご)

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会津九十二万石を領していた蒲生氏郷が所持していました。新藤五国光の最高傑作ともいわれる短刀です。

氏郷から秀行、忠郷と伝えられ、蒲生家は断絶となったあとは、前田利常、徳川家、終戦前に中島飛行機の中島喜与一氏、その後、青山孝吉氏の手にわたりました。現在は、広島県福山市のふくやま美術館に所蔵。

十一、青木兼元(あおきかねもと)

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美濃国の刀匠孫六兼元により鍛えられた日本刀。「真柄切」や「真柄切兼元」とも呼称されます。徳川家康家臣、青木一重が姉川の戦いにおいて、朝倉氏の家臣であった真柄直隆、真柄直澄を討ち取る武功を挙げました。そのときに使用していた刀で、その名が知られるようになりました。その後、青木一重は丹羽長秀に仕えています。その経緯があったためか青木兼元は近代まで丹羽家に伝来していました。

十二、秋田藤四郎(あきたとうしろう)

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豊臣秀吉に仕えた秋田実季の所持であったことからこの名で呼ばれます。

約25.5cmの小振りな短刀。京都国立博物館所蔵の重要文化財です。

十三、浅井一文字(あざいいちもんじ)

浅井長政の佩刀。淀殿が父の形見として大坂落城寸前まで手元にもっていました。

大坂落城後は尾張徳川家、将軍家、加賀前田家、柳沢吉保と伝わります。大正12年の関東大震災で焼失。

十四、小豆長光(あずきながみつ)

上杉謙信が川中島の戦いにおいて武田信玄の軍配を切りつけたといわれる名刀です。刃の上から小豆を落とすと二つに切れたという伝説があります。現存していません。

十五、厚藤四郎(あつとうしろう)

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刀身が極端に厚いことから「厚藤四郎」と呼ばれています。

足利将軍家、一柳直末、黒田官兵衛、豊臣秀次、豊臣秀吉、毛利輝元、徳川家綱に渡りました。

十六、新身国行(あらみくにゆき)

出雲尼子家に伝わる刀。尼子勝久が播州上月城を毛利軍に落とされたときに、山中鹿之介にそれまでの労を謝し、新身国行を与えたそうです。

鹿之介が毛利家に、だまし討されたときに刀も奪われ、のち毛利輝元から豊臣秀吉に献上されました。大坂落城の際に焼失。

十七、石田貞宗(いしださだむね)

関ヶ原の合戦で敗れた石田三成が捕えられる寸前まで所持していました。

捕えた三成を手厚くもてなした田中吉政に、太閤から給わった脇差しを吉政に授けたとされています。

十八、石田正宗(いしだまさむね)

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石田三成が所持していた刀です。豊臣秀吉の没後、三成が佐和山城に蟄居となったときに、佐和山城までの護衛をつとめた徳川家康の次男・結城秀康に礼として渡したといわれます。刀身に深い切込痕があり、「切込正宗」ともいいます。

十九、和泉守兼定(いずみのかみかねさだ)人間無骨(にんげんむこつ)

「鬼武蔵」の異名をとる森長可が所用していた二代兼定作の十文字槍です。

「人間無骨」いう銘を刻んでいたといいます。この槍の前では人間の骨など無いも同然という意味だったようです。

伊勢長嶋の戦いで、森長可はこの槍を振るい二十七もの首級をあげました。

二十、一期一振(いちごひとふり)

正宗と並ぶ名工とされる粟田口吉光作の太刀です。

豊臣秀吉が愛用していましたが、大坂夏の陣で大坂城が落城した際の火災で一期一振も焼けてしまいます。その後、徳川家康は、越前康継に焼けた「一期一振」を打ち直させ、蘇った「一期一振」は尾張徳川家に伝えられるようになりました。

尾張藩主・徳川茂徳より孝明天皇に献上され、以後、皇室に伝えられています。

二十一、一国兼光(いっこくかねみつ)

土佐藩主山内家伝わる重宝。備前長船兼光の代表作の一振りです。

この名刀の存在を知った紀州藩主徳川頼宣が自分に譲るように交渉しました。

交渉したのは藤堂高虎です。しかし、二代藩主山内忠義はこれを即座に断ります。

高虎の「将軍の頼みですよ」の言葉にも、忠義は「土佐一国にかけても断る」と断ったことからこの名がつきました。

重要文化財に指定され高知県に寄贈されました。

二十二、有楽来国光(うらくらいくにみつ)

豊臣秀頼から拝領した織田長益(有楽斎)が所持していたことから。加賀藩主の前田利常にわたります。以降、前田家に伝えられ国宝に指定されました。

二十三、大包平(おおかねひら

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「西国将軍」「姫路宰相」といわれた池田輝政が所有した刀です。日本刀の最高傑作といわれ、刃長は実測で89・2cm。幅が広く、反りが高く、大きさの割に非常に軽く、童子切安綱と並び称されて「日本刀の東西の両横綱」と例えられることもある名刀です。現在は国立博物館に収蔵されています。

二十四、大倶利伽羅(おおくりから)

相州伝の廣光作といわれ、倶利伽羅竜(不動明王の化身とされる黒竜)が彫られています。伊達家伝来の刀ですが、伊達政宗の子、伊達忠宗が徳川秀忠より贈られた刀という説もあります。 秀忠より下賜されてから、戦後まで一度も伊達家を出ることはなかったそうです。 重要美術品の指定を受けています。

二十五、岡田切(おかだぎれ)

織田信長の二男・信雄が所有した刀です。小牧・長久手の戦いのときに、敵対した羽柴秀吉に通じた家老・岡田助三郎が伊勢長島城にて、この刀で斬られたことからこの名で呼ばれるようになりました。のちに、小牧長久手の戦いにまで発展します。

岡田切りの作者「良房」は福岡一文字派の刀鍛冶、助房の子と伝えられます。明治初年には和歌山県令神山郡廉が所蔵していましたが、大正天皇が山県有朋邸を訪れた際に三井財閥の実業家、益田孝が献上しました。東京国立博物館所蔵されています。

二十六、面影(おもかげ)

来国行三尺三寸の大太刀。刀身に顔がはっきりと写ることから面影と名付けられています。もとは長崎為基の佩刀。豊臣秀吉が入手して秀次に譲り、秀次が重臣の木村重茲に与えました。秀次が自尽したとき、重茲は秀次を弁護したことから、自害を命じられます。江戸初期には池田輝政が所有していました。

二十七、歌仙兼定(かせんかねさだ)

室町時代に活躍した刀匠、兼定作。名前の由来は三十六歌仙からです。細川忠興の得意とした居合に向く実用性と、茶人としての美意識を両立した刀の外装は「歌仙拵」と呼ばれ、忠興の創作した拵の形式「肥後拵」として有名です。

二十八、加藤国広(かとうくにひろ)

桃山時代、堀川国広の作。加藤清正の愛刀で娘が紀州徳川頼宣へ輿入の際持たせています。重要文化財の指定を受け、現在は三井記念美術館所蔵。

二十九、瓶割刀(かめわりとう)

一刀流剣術の始祖・伊東一刀斎の愛刀。「瓶割」と通称されます。伊藤一刀斎が鬼夜叉といわれていたころ、三島神社より与えられた刀で、その神社に賊が押し入った際、瓶に潜んでいた賊を瓶ごと切り伏せたことから「瓶割刀」との異名がついたといわれています。代々一刀流の宗家に受け継がれていました。

三十、観世正宗(かんぜまさむね)

観世家より徳川家康に献上された刀。能楽の観世家が所持していたことから「観世正宗(かんぜまさむね)」と称されます。家康が秀忠に与え、以後家臣との間で拝領と献上を繰り返したといわれています。明治維新後、徳川家から有栖川宮に献上、同家を継いだ高松宮家に伝えられました。

三十一、鉋切り長光(かんなぎりながみつ)

近江守護佐々木家に伝わる太刀。佐々木家、織田信長、丹羽長秀、蒲生氏郷と渡り、氏郷の死後、徳川家に献上された。
鉋切り長光には、大工に化けた妖怪を鉋ごと断ち切ったという伝説があります。

三十二、金象嵌銘(きんぞうがんめい)光忠(みつただ)

刃長72.5cm光忠の作刀中、最も華やかな作として知られています。金象嵌銘は本阿弥光徳。織田信長の愛刀でした。徳川家康に贈られ、息子の水戸家初代「頼房」に授けられました。徳川美術館蔵。

三十三、黒ん坊切り景秀(くろんぼきりかげひで)

鞍切景秀ともいわれています。石川昭光から伊達政宗へ献上されました。伊達政宗が文禄年間に秀吉の命令にて朝鮮の役にて使用した太刀です。長さ2尺4寸1分。備前長船鍛冶によって鎌倉中期頃に製作されたものです。政宗の愛刀の中で最高傑作といわれる景秀は、現存しており重要文化財に指定されています。

三十四、郷義弘(ごう・よしひろ)

明智光秀(のち秀満)所用。明智光秀秘蔵の脇指で、山崎の戦いの直前に明智秀満が譲り受けました。秀満は坂本城で、この脇指のみを冥土で光秀に渡すと言い残して、腰に帯びて自害したといいます。?

三十五、古今伝授の太刀(こきんでんじゅのたち)

豊後の刀工行平作。細川家に伝わる名刀。細川藤孝(幽斎)は、関ヶ原の戦で徳川方に属し、田辺城で籠城していました。細川幽斎が立て篭もる田辺城へ朝廷が古今伝授を受け継ぐため烏丸光広等を派遣します。 その際、古今伝授の証として烏丸光広へこの太刀を授けたことから、この名で呼ばれています。のちに細川家が買い戻し家宝として伝わりました。?

三十六、後家兼光(ごけかねみつ)

別名を備前長船兼光といい直江兼続の愛刀です。豊臣秀吉が死んだ際に遺産として兼続に譲られました。兼続が死去すると、妻、お船の方によって上杉家に献上されたため、「後家兼光」と呼ばれるようになります。

三十七、五虎退(ごこたい)

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刀工粟田口吉光の手により作られた短刀。「上杉家御手選三十五腰」の一振りです。

上杉謙信が上洛した際に正親町天皇より拝領され、以降上杉家に伝来しています。

足利義満の役人が遣明使として明に向かった際に、五頭の虎に襲われたものの、この短刀で追い払ったという逸話から、五虎退と言う名前の由来になっているようです。

三十八、小反り兼光(こそりかねみつ)

「上杉家御手選三十五腰」の一振り。享禄2年(1529年)に作った太刀。

三十九、小夜左文字(さよさもんじ)

左文字派の刀工が打った短刀。名前の由来は、母が小夜中山峠で山賊に討たれ、宝刀の左文字が奪われたことを知った息子が、大人になって山賊を討ち取り返したという伝説があります。細川幽斎はその仇討話と西行法師の歌の一節からこの左文字に「小夜」と名付けました。以後「小夜左文字」と呼んだようです。山内一豊、細川幽斎、黒田家、浅野家など渡って個人の所蔵となり、現在は重要文化財に指定されています。

四十、山鳥毛一文字(さんちょうもう)

関東管領山内上杉家に伝わっていた刀。上杉謙信が上杉家の名跡を継承した際に謙信に伝えられます。謙信、景勝の上杉家伝来であったばかりか、日本三剣の1つで、備前刀の最高峰とされています。他の二口は、太刀大包平と童子切り安綱。刃長78.3cm,反り3.3cm,身幅3.48cm皆焼(ひたつら)の華麗な刃紋が特徴です。

四十一、三本寺吉光(さんぼんじよしみつ)

「上杉家御手選三十五腰」の一振り。山本寺家の蔵刀が豊臣秀吉に渡り、秀吉から上杉景勝が拝領しています。

四十二、実休光忠(じっきゅうみつただ)

備前光忠の太刀。三雲定持から三好実休(義賢)が入手し、その後、畠山高政が織田信長に献上しました。本能寺の変の際、信長はこれを持って奮戦したといわれており、発見されたとき刃に18ヶ所の切り込みがあったそうです。後に豊臣秀吉は信長の形見として、これを焼き直しさせます。大坂落城後の行方は不明。

四十三、凌藤四郎(しのぎとうしろう)

藤四郎吉光作の短刀。細川家、織田信長、織田信孝、豊臣秀吉、伊達政宗、徳川家光が所用しています。

秀吉の死後、伊達政宗に贈られると政宗はこれを深く秘蔵し、毎年元旦にだけ差すことにしていました。噂を聞いた将軍家光がこれを所望したときも、「これは太閤の形見だから」といって断っています。政宗の死後、徳川家に凌藤四郎を献上することで、仙台城二の丸増築を認められます。

四十四、次郎太刀(じろうたち)

太郎太刀と同じく、千代鶴国安が作ったとされる大太刀。太郎太刀より小ぶりで長さ167センチ。真柄直隆の子・真柄隆基が使用していたとされています。現在は太郎太刀と共に熱田神宮に所蔵されています。

四十五、燭台切光忠(しょくだいきりみつただ)

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織田信長が所有していた刀で、豊臣秀吉を経て伊達政宗が所持します。燭台切の名は政宗がこの刀で家臣を斬った勢いで、そばにあった燭台も切れたことが由来です。政宗、水戸徳川家と渡り、関東大震災で被災し焼刀となりますが、今も焼刀の状態で博物館に保管されています

四十六、水神切兼光(すいじんぎりかねみつ)

上杉家御手選三十五腰の一振りで、上杉家名物家老の直江兼続の愛刀としても知られます。

四十七、宗三左文字(そうざさもんじ)

「義元左文字」と称されます。元々は二尺六寸の長さを持つ太刀であり、三好政長から甲斐の武田信虎に贈られました。信虎が今川氏と和睦を結ぶ際に、今川義元に嫁がせることなった娘に刀を持たせ、信虎の婿となった今川義元は、宗三左文字を自分の愛刀として大切にしていたそうです。

桶狭間の戦いにおいて義元は討死し、織田信長が戦利品として宗三左文字を手に入れます。信長は刀に「織田尾張守信長」「永禄三年五月十九日義元討捕刻彼所持刀」と金象嵌銘を入れ、自分の愛刀とします。

本能寺の変の後は、豊臣秀吉、豊臣秀頼、徳川家康の手に渡ります。これ以降、徳川将軍家の重宝として代々受け継がれていくこととなこの経歴により、この刀は常に天下を取る人の手にあるといわれています。

四十九、ソハヤノツルギ

「ソハヤノツルギ ウツスナリ」の文字が刻まれている徳川家康の愛刀です。そのあまりの切れ味に家康は臨終の際、いまだ不穏な動きを見せる大坂に刃を向けて置くよう遺言したといわれています。

五十、太鼓鐘貞宗(たいこかねさだむね)

伊達政宗の愛刀。重要文化財。

五十一、大般若長光(だいはんにゃながみつ)

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鎌倉時代の備前長船派の刀工長光の代表作。長篠の戦いでの戦功を称えて、徳川家康が奥平信昌に送った刀。

大般若と呼ばれるようになったのは、六百貫という法外な値段から大般若経六百巻をもじって洒落で名付けられたそうです。東京国立博物館所蔵 国宝。

五十二、高瀬長光(たかせながみつ)

「上杉家御手選三十五腰」の一振り。

五十三、鷹の巣宗近(たかのすむねちか)

秀吉より島津家に伝わった名刀。

五十四、竹俣兼光(たけのまたかねみつ)

長船兼光作の刀。雷神を二度も切った刀とされ「雷切」とも呼ばれた。竹俣慶綱が上杉謙信に献上した後には、謙信がこの刀で一両筒の火縄銃の銃身を切断したことから「一両筒」とも呼ばれました。小豆兼光と似た逸話もあります。

五十五、太郎太刀(たろうたち)

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越前の刀匠千代鶴の作によるといわれている。資料によって五尺三寸(約175センチ)、七尺八寸(約240センチ)、九尺五寸(約288センチ)とことなっていますが、愛知県名古屋市の熱田神宮宝物館に奉納されているものは刃渡り221.5センチで重さ4.5キロ。 とても大きな太刀です。戦国時代朝倉家の猛将・真柄直隆が使用したといわれています。

五十六、津田遠江長光(つだとおとうみ ながみつ)

信長の愛刀でしたが、本能寺の変後に明智光秀が奪います。

光秀の家老「津田遠江守」に授けたことから津田遠江長光と呼ばれています。

のち前田利長、五代将軍綱吉へと移り、六代将軍家宣より四代吉通が拝領しました。

五十七、鶴丸国永(つるまるくになが)

平安時代中期の刀工・五条国永の作った刀で、国永の最高傑作とされ、太刀拵に「鶴」の文様があります。刃長は二尺五寸九分半(78.63cm)。

安達氏が滅びた際、鶴丸国永は安達貞泰とともに埋葬されましたが、鶴丸欲しさに墓を暴いた北条貞時の手に渡ります。その後、織田信長、御牧景則、伏見藤森神社、仙台伊達家、明治天皇へと渡り、現在は皇室御物になっています。

五十八、典厩割国宗(てんきゅうわりくにむね)

「上杉家御手選三十五腰」の一振り。三尺三寸。川中島の合戦において、謙信自ら近侍を率いて武田陣中へ切り込み、武田信繁を切って落としたときの刀だといわれています。その後、北条氏康と対峙したときに、佐竹義重が上杉方の味方に参じました。謙信は大いに喜び、厚く来陣の礼を謝し、帯びていた典厩割国宗を贈ったといいます。佐竹義重から義宣へと伝わり、義宣は二尺三寸一分と磨上黄金造りにした上で、佐竹家の重宝としました。

五十九、同田貫(どうだぬき)

同田貫は実戦向けの丈夫な刀で、見栄えを意識しておらず、美術品としては注目されていませんでした。加藤清正の時代には熊本城の常備刀に選ばれ、豊臣秀吉の朝鮮出兵でも使われました。

六十、徳用守家(とくようもりいえ)

「上杉家御手選三十五腰」の一振り。徳川家康から贈られた畠田守家作の太刀。幕府は何度もこれを取り戻そうとするも、上杉家では「見当り不申」と申し立て秘蔵したといわれています。

六十一、富田江(とみたごう)

富田一白から堀秀政が買い求め、秀吉に献上しました。秀吉から秀次へ渡り、また秀吉に献上されます。その後、前田利長が拝領しました。 利長は三尺あったのを二尺一寸四分にしました。前田利長から徳川秀忠に献上され、秀忠の死後、遺物として前田利常が拝領します。

六十二、虎御前(とらごぜ)

竹中半兵衛重治の佩刀。備前元重作。近江虎御前山の戦いで半兵衛が功を挙げた際に、秀吉がこれを与えました。半兵衛の死後、土佐山内家に伝わり、1997年に京都で個人の調査によって再発見されました。明治末期から京都国立博物館に保管されていたところ、個人に渡って行方がわからなくなっていたそうです。?

六十三、長篠一文字(ながしのいちもんじ)

奥平信昌が長篠の戦いでの戦功により、織田信長より拝領した刀。

六十四、鯰尾藤四郎(なまずおとうしろう)

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粟田口吉光作の脇差。元は小薙刀だったが脇差に直された。

ナマズの尾を連想させる姿から「鯰尾」の異名を持つ。豊臣秀吉の三男・豊臣秀頼の愛刀だったが、大坂夏の陣で焼けました。その後、一期一振と同じく、徳川家康の命によって焼きなおされます。現在は徳川美術館所蔵。

六十五、波遊ぎ兼光(なみおよぎかねみつ)

二代長船兼光作の日本刀。上杉家に伝えられていたが、後に立花宗茂に渡り立花家の重宝となりました。江戸幕府第8代将軍徳川吉宗が再三にわたり観賞を希望したが、立花家は応じませんでした。名前の由来は二説あり、一つは、斬られた者が川に飛び込んで逃げ、泳いでいるうちに首が落ちた、もう一つは、竜の彫り物が波間を泳いでいるように見える為とされます。

六十六、波潜(なみくぐり)

小早川隆景の佩刀。三条宗近作。

六十七、にっかり青江(にっかりあおえ)

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夜道で「ニッカリ」笑いながら近づいてくる女(妖怪)を斬りつけ、翌朝確かめたところ、石灯籠が二つに切れていた、という伝説があります。柴田勝家、柴田勝敏、丹羽長秀、豊臣秀吉、豊臣秀頼、京極高次に伝えられます。にっかり青江は二尺五.六寸の長さがあり身幅広く豪壮な姿の青江の太刀でした。

賤ケ岳の合戦の後、北陸攻めの戦利品で丹羽家の蔵刀になりました。このときに二尺一寸五分位の長さにとなり、豊臣秀吉に献上されます。豊臣家にあっても大切にされ、一尺九寸九分に磨上げられたとされます。その後、にっかり青江は、豊臣秀頼から京極家高次に下賜され、京極家の自慢の品として伝来しました。

江戸時代に刀剣極所の本阿弥家の鑑定により無代(値が付けられないほどの極上品)とされています。昭和15年に重要美術品の認定を受け、京極家を離れました。

六十八、日光一文字(にっこういちもんじ)

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北条早雲が所有した名刀です。日光権現社にあったものを、小田原の北条早雲が申し請けたので「日光一文字」の名になりました。家督を譲るときには必ずこの家宝も受け継がれています。

小田原征伐の際に豊臣秀吉と北条氏直の間をとりなした黒田官兵衛が氏直からもらったものだといわれています。また、小田原征伐で功があった如水に秀吉が与えたと伝えるものもあるようです。

日光一文字は、刃長71.21cm、反り2.88cm、元幅3.21cm先幅2.4cm鋒長3.79cmという鎬造りの豪壮な太刀姿です。?

六十九、日光助眞(にっこうすけざね)

秀吉没後、加藤清正が徳川家康に献上した太刀。豊臣秀吉の死後、加藤清正から徳川家康に献上されたといわれる名刀です。

七十、禡祭剣(ばさいけん)

「上杉家御手選三十五腰」の一振り。上杉謙信が禡祭に用いました。表裏に樋があり、その中に梵字が表に46個金象嵌、裏に63個金銀象嵌、さらに七曜星も象嵌されています。鞘には十二支が表裏に分けて6つずつ、金梨地に蒔絵となっています。

七十一、八文字長義(はちもんじちょうぎ)

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「鬼義重」と豪勇を恐れられた佐竹義重の大刀。義重がこの長義の大刀をふるい北条方の騎馬武者の頭上から一撃したところ、兜もろとも頭部が二つにわれ、馬の左右に八文字形になって落下したことから「八文字長義」と名付けられたといいます。

七十二、八丁念仏団子刺し(はっちょうねんぶつだんござし)

雑賀孫市の佩刀。名称の由来にこのような逸話があります。ある月の明るい夜、孫市は自分の佩刀の切れ味を試そうと思い辻に出た。すると寂しい道を、念仏を唱えながらトボトボと歩いてくる人影が見えた。孫市はいきなり馳せ寄ると、袈裟懸けに斬りつけた。確かに手応えはあった。が、不思議なことにその斬られた男はなお念仏を唱えながら歩いて行くではないか。

孫市は首を傾げながら、刀を抜き身のまま杖について、その男の跡をつけた。おおよそ八丁ほど来た時、ビタリと念仏の声が途切れたかと思うと、その男は真っ二つになり倒れて死んだ。その時杖についていた刀を見ると、往来の石が切っ先に刺し貫かれて、団子の串刺しのようになっていた。

これよりこの刀は『八丁念仏団子刺』と名付けられ、当時「雑賀の八丁念仏」と言って、名誉の太刀とされていた。作は備前の行家で、二尺九寸物。今は小梅の徳川家(旧水戸家)に蔵されているという。(古今名家珍談奇談逸話集)

七十三、はばき国行(はばきくにゆき)

豊臣秀吉が伊達政宗に贈ったとされる刀。ハバキに銘があり、それに「国行」と彫ってあったため名付けられました。伊達家剣槍秘録にも最初に掲載されています。政宗は、亘理来、くろんぼ斬景秀、鎬藤四郎、はばき国行を離さず秘蔵していました。そのため今後も他家に出さぬよう命じたといいます。太平洋戦争終了まで伊達家に伝わっていましたが、現在行方不明です。

七十四、半月丸(はんげつまる)

尼子家家臣の山中鹿之介の佩刀。二尺二寸八分。

七十五、泛塵(はんじん)

真田幸村の愛刀。宇多国次作。

七十六、姫鶴一文字(ひめつるいちもんじ)

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上杉謙信の愛刀の一振り。刀長約71・5cm(二尺三寸六分)「姫鶴」の号は、元々太刀であったものを磨上げ(刀を切り縮めて短くすること)ようとしたら鶴姫と名乗る女性が夢に現れて磨上げを思い止まるように懇願した、という逸話があります。米沢市上杉博物館蔵。

七十八、平野藤四郎(ひらのとうしろう)

粟田口吉光作の短刀。名前の由来は、豊臣氏の家臣で千利休の弟子の木村重茲が、摂津の商人平野道雪から入手したことによります。木村重茲はこの短刀を豊臣秀吉に献上し、秀吉は前田利長に譲り、以後、前田家に伝えられました。明治時代、前田家より皇室に献上されます。

八十、飛竜丸(ひりゅうまる)

長宗我部家伝来の太刀。伯耆安綱の作。明治期には樺山資紀が所有。日露戦争後、東郷平八郎に贈ったといわれています。

八十一、日向正宗(ひゅうがまさむね) 

関ケ原の戦いで、水野勝成が石田三成から奪いとったことからこの号があるそうです。

八十二、二つ銘則宗(ふたつめいのりむね)

備前一文字則宗作とされる日本刀。「鬼丸」「大典太」「骨喰藤四郎」と並ぶ足利将軍家の重宝。のちに豊臣秀吉の手に渡り、京都の愛宕神社に奉納されました。重要文化財。?

八十三、不動国行(ふどうくにゆき)

織田信長の愛刀。表の腰に不動明王の浮き彫りがあります。足利将軍家が所蔵していたものを、松永久秀が分捕り信長に献上します。本能寺の変後は、明智秀満、豊臣秀吉、徳川家康に渡ります。江戸大火で失われました。

八十四、風鎮切光代(ふうちんぎりみつよ)

柳生厳包の脇差。別名、鬼の庖丁。一尺三寸六分、身幅一寸二分、肥後守秦光代作。

八十五、太栰正宗(ふかいかだまさむね)

「上杉家御手選三十五腰」の一振り。上杉景勝の嫡子定勝が元服した際、将軍秀忠より拝領した太刀。

八十六、福島兼光(ふくしまかねみつ)

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福島正則が広島城下の本覚寺から入手した刀です。重要文化財。東京国立博物館蔵。

八十七、振分髪(ふりわけがみ)

「振分髪」と銘の伝わる刀は、信長、吉川資料館、伊達政宗、稲葉一鉄の四本あります。

伊達政宗の「振分髪」は、江戸城内で「政宗殿の脇差は、やはり正宗の作でしょうか」聞かれ、「無論正宗でござる」と答えてしまったところから話が始まります。伊達家には脇差の正宗はありませんでした。そこで、政宗が秘蔵の正宗の刀を脇差に直そうと言いだします。

呼び出された鍛冶の者や家臣はもったいないと諌めましたが、政宗は承知しません。そして正宗の刀を脇差に直しました。その脇差に「振分髪」という銘をつけさせました。

「振分髪」とは

「在原朝臣(業平)の歌にある『くらべこし振り分け髪も肩すぎぬ君ならずして誰かあぐべき』

(長さくらべしていたわたしの振り分け髪も肩から下がるほどになりました。この髪を揚げてくれるのは、あなたの他に誰がいるでしょうか)

という歌の意味でした。

その後、伊達家の名器として尊ばれます。しかし、後に昭和に入ってから発見され鑑定したところ、正宗作のものではなかったことがわかりました。

いろいろなパフォーマンスをしている政宗のことなので真相は謎です。?

八十八、圧切長谷部(へしきりはせべ)

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織田信長が黒田官兵衛に与えた刀として有名です。あるとき、信長に無礼を働いた茶坊主が居ました。茶坊主は信長の怒りから逃れるために食器棚の下へ隠れます。信長は茶坊主の後を追いかけ、必死で命乞いする茶坊主を棚ごとへし切ったことが、名前の由来です。

黒田家に伝わる名刀ですが、信長から官兵衛が直接賜ったものだとするものと、信長から豊臣秀吉に渡り、秀吉から官兵衛が賜ったとするものと二つの説があるようです。

八十九、蛍丸国俊(ほたるまる)

来国俊作の大太刀。刀身が三尺三寸四分五厘(約100.35cm)という大太刀で、茎には永仁五年三月一日の銘があったとされています。

蛍の夢

阿蘇惟澄が足利軍との戦いで敗戦濃厚のなか奮戦していましたが、さすがの名刀も無数の刃こぼれができ、ささらのようになったといいます。残り僅かな郎党を率いて居館に引き返した惟澄は、太刀を壁に立てかけいつの間にか眠りに落ちます。

その夜、不思議な夢を見ました。夢の中で無数の蛍がその太刀にまとわりつき、欠けた刃が飛んで戻ってきて元の場所に収まった様子が蛍に見えた夢だったようです。惟澄が目覚めた後、太刀を確認すると、刃こぼれが全く消えていたといいます。

阿蘇家に近代まで伝えられていて、昭和六年には「国宝」に指定されました。しかし戦後行方不明になってしまい、現在に至るも見つかっていません。

九十、骨喰藤四郎(ほねばみとうしろう)

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粟田口藤四郎吉光の作。征夷大将軍、足利尊氏の愛用した薙刀。戦国時代に磨り上げられて磨り上げて太刀にしています。斬る真似をされただけでも骨まで砕けてしまうという威風を持った剛刀であることから、俗に「名物骨喰藤四郎」「骨喰吉光」と呼ばれています。

足利幕府十三代将軍、義輝の頃には足利家の象徴の宝剣でした。その後、義輝を暗殺した松永久秀、大友宗麟、豊臣秀吉、徳川将軍家に渡ります。暦の大火で焼身となりましたが、豊臣家が残していた刀拓を元に復元されました。現在は重要文化財に指定されています。

九十一、前田藤四郎(まえだとうしろう)

短刀作りの名手と呼ばれた粟田口義光につくられた短刀。加賀前田家の前田利政が所持していたためこの名がつきました。重要文化財に指定。前田家伝来の文化遺産を保存する前田育徳会により大切に保管されています。

九十二、乱藤四郎(みだれとうしろう)

別名『乱吉光』。粟田口吉光の作の短刀。藤四郎としては珍しく乱れ刃を持ち、これが号の由来ともなっています。室町時代、細川勝元の所持となっていたときに名付けられ、それを足利将軍家に献上。

足利義昭が本圀寺において、三好一族に囲まれたとき、朽木元綱が駆けつけ救いました。その功を称して、乱藤四郎を元綱に与えました。現在は大阪歴史博物館に所蔵されています。

九十三、妙法村正(みょうほうむらまさ)

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勢桑名の刀工、村正の晩年の作。三代目村正作ともいわれ、妙法蓮華経の題目が彫られていることにより「妙法村正」と呼ばれています。

鍋島勝茂、息子の鍋島元茂に与えられ、終戦まで鍋島家に伝来します。村正作刀では唯一重要美術品に指定されました。

九十四、毛利藤四郎(もうりとうしろう)

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毛利隆元が亡くなり十一歳の輝元に家督を譲ったときに、毛利元就は小早川隆景に隆元の補佐をするように頼みました。その際に、贈られた毛利重代の吉光の短刀です。毛利輝元から家康に献上され、その後関ヶ原の時に池田輝政が拝領。戦後は国有となり、現在は東京国立博物館に所蔵されています。

九十五、妖刀村正(むらまさ)

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血を好み、血を吸う刀、徳川家に仇をなす「妖刀」として知られます。村正は伊勢国桑名に存在した刀工集団の名称で、そこで製作された日本刀が「村正」と呼ばれ、見た目よりも実用性を追求しているため、切れ味に定評があったそうです。徳川家との因縁がある刀で、いろいろな逸話が残されています。

一、徳川家康の祖父、松平清康が家臣に村正で殺害される。

二、徳川家康の父、松平広忠が家臣に村正で殺害される。

三、徳川家康の嫡男、松平信康が切腹の際に介錯の刀として使用されたのが村正

四、徳川家康が関ヶ原の戦いに勝利したあと、敵方の武将が持っていた槍を検分しようとした際に、家臣が誤って槍を落としてしまい、徳川家康の指を切りつけてしまう。その槍の槍も村正でした。

五、大坂の陣において、徳川本陣に突撃して徳川家康に一時は敗走・切腹を覚悟させるほど苦しめた真田信繁が愛用していたのが村正といわれています。

六、村正作の一振と正宗作の一振を川に突き立ててみたところ、上流から流れてきた葉っぱが、まるで吸い込まれるかの如く村正に近づき、刃に触れた瞬間、二つに切れた。一方、正宗には、どんなに葉っぱが流れてきても決して近寄ることはなかったといいます。

徳川美術館では尾張徳川家に遺品として残したとされる一振りが展示されています。

九十六、柳生の大太刀(やぎゅうのおおだち)

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柳生宗厳以降、代々新陰流の宗家に受け継がれる大太刀。新陰流の正統の証とされた刀で「霊剣」と呼ばれています。銘は「出雲守永則」

刃長4尺7寸8分(約1.45m)の長大な刀で、腕力のある者が持つことはできたが構えることはできなかったと伝えられます。徳川美術館所蔵

九十七、薬研藤四郎(やげんとうしろう)

粟田口藤四郎吉光作の短刀。名前の由来は、切腹しようとした主人の腹は切らずに、薬研(薬草や薬石を挽く鉄製の道具)を切ったことから「藤四郎吉光の短刀は、切れ味は抜群だが主人の腹は切らない」と評判になりました。畠山政長、足利家、織田信長に渡り、信長はこの刀を常に肌身離さず愛用しました。本能寺の変にて焼失。

九十八、山姥切国広(やまんばぎりくにひろ)

長義作の「山姥切」と、それを写した「山姥切国広」堀川国広作があります。北条氏政が長尾顕長に贈ったという長義の刀は、昔信濃戸隠山中の山姥なる化け物を退治したことから「山姥切」と号されました。そして長義の刀を写して打った「山姥切国広」は国広作中第一の傑作でした。

九十九、夢切り国宗(ゆめきりくにむね)

「上杉家御手選三十五腰」の一振り。上杉謙信は晩年、これを「老之杖」にしようと考えていましたが、我が武勇を継いでくれるのは貴殿以外にいないという書状を添えて佐竹義重に贈っています。

佐竹義重は太田城の櫓で寝ていると大蛇に襲われ、国宗の名刀で切り放ちます。夢が覚めて国宗を見ると、鞘から脱して戸に立てかけた格好になっていた国宗をみて驚きました。以来、「抜け戸夢切り」または「夢切り」と名付けられました。混同されることがありますが「典厩割国宗」ではないようです。

百、雷切(らいきり)

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木の陰で雨宿りしていた立花道雪(戸次鑑連)が雷または雷神を斬ったと伝えられる日本刀。元の名は「千鳥」でしたが、雷神を斬った後に道雪によってこの名に改められたと伝えられています。道雪は雷に打たれ半身不随になりながらも生きていたため、人々は道雪が雷を切った、雷神を斬ったなどと噂したそうです。その勇猛は諸国に知られて恐れられています。

百一、来國長(らいくになが)

長さ二尺六寸一分七厘。武田信玄所用の佩刀と伝えられます。

百二、六股(ろくまた)

大久保忠世所用。三人の両股を一度に斬ったことから名がある剛刀。

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