徳川秀忠は1579年徳川家康と側室、西郷局の間に生まれました。
家康の長男・松平信康が切腹、次男の秀康は豊臣秀吉の人質として結城家に養子に出され結城秀康となったことから、秀忠が徳川家の後継ぎとして育てられます。
小田原征伐の際に人質として上洛し、豊臣秀吉に謁見すると、「秀」の字を受けて「秀忠」と名乗ります。
織田信雄の娘、小姫を娶りましたが、織田信雄が改易されて小姫と離縁。そして浅井三姉妹の三女お江と再婚します。お江との間に二男五女の子宝に恵まれました。
秀忠の初陣は関ヶ原の戦いです。秀忠は家康から三万八千の兵を与えられ、中山道を通り美濃へ向かい、家康と合流して石田三成の西軍と戦う予定でした。
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上田城にて真田昌幸・幸村父子の抵抗を受けると、大軍を率いながら、わずか二千の真田勢に時間を浪費してしまいます。信濃上田城攻めに苦難している間に、早期決戦を取り決めた家康が美濃へ軍を急行させました。連絡を受けた秀忠の一隊も早急に美濃へ向かいます。
秀忠は上田城攻略を諦めて、関ヶ原に急ぎましたが、天候不順による増水で川を渡れないなど行軍が遅れ、関ヶ原決戦に間に合わないという失態を犯します。
そのあいだに関ヶ原の戦いの決着はつきました。本戦に遅れ、大津にて徳川家康の本隊に合流しましたが、なかなか徳川家康に面会してもらえませんでした。
戦いでは良い評価がされなかった秀忠でしたが、重臣を集めて後継者を決める選定会議では、重臣の大久保忠隣がこれからは戦いのない時代を治めるのは、文智を備えた秀忠が一番ふさわしいと主張し、家康の後継者に決まりました。
徳川家康が第一代征夷大将軍に就任した二年後の1605年、将軍職の世襲を示すために、秀忠が第二代征夷大将軍となりました。これと同時に、家康は大御所として駿府城へと移りましたが、実権は家康が握っていました。
その後、方広寺鐘銘事件をきっかけとして、徳川方と豊臣方の関係が悪化し、大坂の陣が勃発します。大坂夏の陣が佳境に入ると豊臣方の敗北が決定的となり、淀殿と豊臣秀頼は自害。豊臣家は滅び、戦国の世が終わりを迎えた瞬間でした。
翌年、家康は生涯を閉じ、秀忠はようやく幕府の全権を握ります。
秀忠は名実共に江戸幕府の主導者となり、側近の酒井忠世・土井利勝・安藤重信らを老中に起用。『武家諸法度』、『禁中並公家諸法度』制定し、江戸幕府の権威を高めます。
また、異母弟たちを尾張、紀伊、水戸に配して御三家体制を確立しました。弟の松平忠輝や甥の松平忠直、本多正純、福島正則などの譜代大名または外様大名の改易、配置換えなどにより大名の配置を一新、江戸幕府の態勢を確立しました。
三代将軍である徳川家光に将軍職を譲ったあとも、大御所として政治に関わります。
1632年に五十三歳で死去。歴史上では、初代将軍徳川家康、三代将軍徳川家光に注目されることが多いですが、秀忠は家康が用意した江戸幕府の方向性を決め、実践していった重要な人物でした。