徳川信康は、1559年に徳川家康の長男として駿府で生まれました。
幼少期は、徳川信康は今川氏の人質として駿府で過ごしました。桶狭間の戦いの後に徳川軍の捕虜となった今川家家臣との人質交換により実家である岡崎城に戻りました。
松平信康は、織田信長の娘である徳姫と結婚します。この夫婦は二人とも九歳でした。
徳川信康は元服して、織田信長より「信」の字を、父・徳川家康から「康」の字を与えられて松平信康(徳川信康)と名乗りました。1570年には正式に岡崎城主となります。
長篠の戦で初陣を飾り、徳川軍の大将として参戦。武田氏との戦いにおいて軍功を挙げます。
とくに1577年の遠江横須賀の戦いでは、嫡子でありながら殿軍を務め、武田軍に大井川を越させなかったといわれています。このように三河武士を率いて、徳川軍を大いに補佐していました。敵将勝頼が「かの小冠者長生せば、必ず天下に旗を立つべし」と評したといわれています。
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1579年に信康の切腹と、築山殿の殺害という悲劇が生まれます。信康の切腹に至った経緯は、はっきりしていません。通説は次のとおりです。
徳姫は信長の娘であり、一方、姑の築山殿は今川家の血を引き、お互いに折り合いがよくなく、徳姫は信康とも不和になっていきました。
徳姫は信長に対して、この不和の件と築山殿は武田家に内通したと書状を書き、使者として信長の元に向かう徳川家の重臣・酒井忠次に託しました。
信長は、忠次にこの件について尋ねました。忠次は信康を全く庇うことはなく、徳姫の書状の内容すべてを事実と認めました。これを以て、信長は家康に信康の切腹を要求したといわれています。
徳川家中では信康の切腹について反対する家臣が多く、信康の世話役である平岩親吉は、責任を自分がとり、自らの首を信長に差し出すと訴えました。しかし家康は忠次が信長に対して既に認め、信長の怒りに対して申し開きができないと判断し、苦渋の決断により信康の切腹を命じます。
信康は堀江城、さらに二俣城に移されました。築山殿は二俣城への護送中に湖の畔で、徳川家家臣により殺害されました。信康は二俣城で服部半蔵の介錯で自刃ました。
信康の切腹については、家康と信康父子の間に問題が起こったため、信康の切腹を命じたのは、信長ではなく家康であるという説もあります。
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