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    Categories: 武将紹介 徳川家

結城秀康

結城秀康は徳川家康が駿府城主だった頃に正室である築山殿の侍女・お万の方の子で、家康の次男として遠州浜松で生まれました。幼名を於義伊といいます。その出自を家康に嫌われ、秀康は三歳のときまで父子の対面を果たせませんでした。
家康との対面も、長男・松平信康によるとりなしで実現したものだったようです。兄の信康は1579年、武田勝頼との内通の疑いで、織田信長の命令により切腹させられました。秀康が五歳のときでした。
これを受けて本来ならば秀康は次男であるため徳川氏の後継者となりますが、小牧・長久手の戦いの後、家康と豊臣秀吉の講和条件として、秀康は秀吉のもとへ養子に出されます。
養子となった秀康には、榊原康勝・本多仙千代(本多成重)らが随行しました。その後、元服して養父・豊臣秀吉と実父・徳川家康の名を一字ずつ取り「羽柴秀康」と名乗ります。
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1589年に秀吉に豊臣鶴松が誕生すると、秀吉は鶴松を豊臣氏の後継者としたことを受け、秀康は他家へ養子に出されました。1590年に結城秀康は関東の下総国の結城晴朝の姪と結婚し、結城氏の家督を継ぎます。
秀康は関ヶ原の戦いの前哨戦である上杉征伐に参戦。石田三成が挙兵すると、家康は小山評定を開催し、西に引き返すことを決定しました。このとき家康は本隊を率いて東海道から進軍し、別部隊を徳川秀忠が率いて中山道を進軍しました。
徳川家康は秀康を上杉景勝けん制の役目につかせ、関東留守居役を任じます。関ヶ原の戦いの後、秀康は下総結城領から越前北庄六十七万石に加増移封を命じられました。
秀康は1604年には松平氏の姓に復しました。これを以て越前松平家初代となります。その後、病にかかり、1607年に越前において三十四歳で死去しました。梅毒により死去したともいわれています。
武将として一流の器量を備えていると周囲からも認められていました。武勇抜群、剛毅で体躯も良く、槍身が210?である槍も振り回したと言われています。また民政においても船・兵糧の奉行を務め、文武両道の人物でした。

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