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    Categories: 武将紹介 徳川家

藤堂高虎

藤堂高虎は、1556年に、近江国藤堂虎高の次男として生まれました。幼名を与吉といいます。身長六尺三寸(約190センチメートル)ほどもあり、当時ではかなりの大男だったようです。
近江の浅井長政の足軽として仕え、1570年の姉川の戦いに参戦しました。織田軍の敵首を取ったことにより、軍功を認められ、長政から感状を受けます。
小谷城の戦いで浅井氏が織田信長によって滅ぼされると、浅井氏の旧臣だった阿閉貞征、磯野員昌の家臣として仕えましたが、織田信長が磯野員正を追放したため、やがて近江を去って、織田信長の甥・織田信澄の家臣となります。
しかし丹波攻めにて評価が低かったため出奔。
次いで羽柴秀長に仕えて中国攻めに従軍。本能寺の変後も秀長のもとで、賤ヶ岳の戦い、九州征伐などに参戦しました。賤ヶ岳の戦いにおいて武功をあげ、大名に昇進し、これ以降も順調に石高を増加させます。
秀長の死後は、秀長の甥の豊臣秀保に仕えました。秀保の代理として文禄の役に出征します。秀保が早世した後は一時出家しましたが、高虎の武才を買っていた豊臣秀吉の要請により還俗しました。これを受けて藤堂高虎は大名として復帰。慶長の役に水軍を率いて参戦します。
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秀吉の死後は徳川家康に接近し、関ヶ原の戦いでは東軍側につきました。
高虎は会津征伐にも参戦。石田三成が挙兵した後は、織田秀信が守る岐阜城を攻撃します。さらに関ヶ原の戦いでは大谷吉継と死闘を繰り広げました。毛利輝元の四国出兵の撃退や、西軍諸将への調略においても手腕を発揮するなど武功を認められ、今治二十万石の大名になります。
その後は二度の加増転封により、津藩主となって大坂の陣に徳川方として参戦します。大坂の陣においては、長宗我部盛親と激突し、その武功により三十二万石に加増されました。大坂の陣の後は藩政の確立に努め、家康のもとで外様とは思えないほどの信頼を勝ち取ります。幕命により会津藩、高松藩、熊本藩の後見も行いました。
高虎は城づくり・町づくりの名人として有名でした。高虎が中心となって設計・建造・修築した城や城下町は宇和島城、今治城、伊賀上野城、津城、伏見城、二条城、江戸城、上野の寛永寺、日光東照宮、名古屋城、駿府城、新大阪城など数多くあります。
己の才覚で主君を変え、自分の力を発揮した高虎は、1630年に享年七十五歳で死去しました。

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