石川数正

石川数正は、1533年に石川康正の子として三河国で生まれました。徳川家康が駿河の今川義元の人質になっていたときから近侍として仕えます。桶狭間の戦いで今川義元が討たれて徳川家康が独立すると、数正は今川家と交渉し、今川氏の人質であった家康の嫡男・松平信康と徳川家康の正室、築山殿を取り戻しました。
三河一向一揆が起こると、父・石川康正は家康を裏切ったといわれていますが、数正は浄土宗に改宗して家康に力を尽くします。しかし石川宗家の家督は叔父の石川家成が家康の命で家督を継ぎました。これは家成が家康の従兄妹にあたるためでもありました。
数正は家康に近習していたこともあり、家老に任じられ、酒井忠次、石川家成らに次いで重用されます。松平信康が元服するとその後見人となりました。
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姉川の戦い、三方ヶ原の戦い、長篠の戦いなど多くの合戦に出陣して数々の軍功を挙げています。
1579年に松平信康が切腹すると、岡崎城代となりました。本能寺の変により、1582年に織田信長が死去した後、豊臣秀吉が台頭すると、数正は家康の命令で秀吉との交渉にあたります。
小牧・長久手の戦いにも参戦。このとき家康に秀吉との和睦を提言したといわれています。この提言で家康の機嫌をそこね、また、徹底抗戦を主張する他の重臣たちとの間に意見の相違もあったようです。そして数正は突如として家康のもとから出奔。秀吉に臣従します。
数正は徳川の軍事の内うちを知り尽くしており、数正の出奔は徳川家にとって大きな衝撃でした。以後、徳川軍は軍法を武田流に変更します。
数正は秀吉から河内国に八万石を与えられ、豊臣秀吉の家臣として仕えました。小田原征伐後に秀吉より信濃松本十万石に加増移封されました。
数正は権威と実戦に備えた雄大な松本城を築城します。街道をつないで流通機構のルートを確保するために城下町を建設するなど、民政の充実、政治基盤の整備に尽力しました。1593年に六十一歳で死去。
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