鳥居元忠

鳥居元忠は鳥居伊賀守忠吉の三男として生まれました。幼名は鶴之助。元忠は十三歳の時に十歳の徳川家康の近侍として仕えます。以来、姉川の戦い、三方ヶ原の戦い、長篠の戦いなどの合戦で戦功を挙げました。
1572年に父が死去すると、鳥居家の家督を相続して徳川家に仕え続けます。本能寺の変が起こった際に、甲府で北条氏勝に勝利したことにより家康から甲州郡内の地を与えられ谷山城主となりました。その後、小田原征伐では家康に従って出陣し、武功をあげ、豊臣秀吉からも評価されています。
元忠は関ヶ原の戦い直前に、生死を決する場面に直面しました。
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まず家康は会津征伐へと向かうことを決意します。家康が会津征伐に向かうにあたって、伏見城の守備を元忠に任せました。
これは伏見城を僅かな兵で守ることで、石田三成を挙兵させる思惑があったようです。伏見城の守備を受けたとき元忠は、籠城、討死を覚悟しなければなりませんでした。家康は元忠に、その「死命」を詫びます。
翌日、徳川家康は伏見城を出て、上杉討伐に出陣しました。元忠が予想した通り、石田三成らは挙兵し、伏見城攻めを開始します。西軍は宇喜多秀家を総大将として大坂を出て、伏見城を総勢四万人の兵で包囲しました。これに対して元忠は、自らは本丸を守り、その他の陣にも各武将を配置し、徹底抗戦の構えを見せます。
かくして西軍の猛攻が始まり激しい銃撃戦が展開されました。元忠らは頑強に抗戦します。徳川方の武将たち次々と討たれましたが、本丸にいた鳥居元忠は奮戦して、なだれこむ敵を幾度となく追い返しました。
最後には元忠とわずか十余人しか残ってはいなかったといいます。そして自分の所にやってきた敵将の鈴木孫一に「吾は鳥居彦右衛門よ。首取て功名にせよ」と告げ、具足を脱いで切腹。孫一に介錯のような形で首を刎ねられ討死しました。享年六十二歳。
家康は元忠の嫡男・鳥居忠政を、磐城平藩十万石を経て山形藩二十四万石の大名に昇格させ、元忠の捨て身の忠義に報いました。

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