高力清長は、1530年に三河で、松平氏の家臣・高力安長の長男として生まれます。
尾張国の織田信秀が1535年に三河に侵攻してきた際に父の高力安長が戦死。このとき六歳だった高力清長は叔父の高力重正に養育されながら松平広忠に仕えました。のちに松平広忠の子、駿河で人質生活を送っていた徳川家康に仕えます。
桶狭間の戦いで今川義元が戦死したあと、西三河平定戦、1563年の三河一向一揆で軍功を挙げました。特に一向一揆鎮圧後には仏像や経典の保護に努め、寺社の原状回復に努めます。領民からは「仏高力」の異名をつけられています。この功労を認められ、岡崎奉行に任命されました。そして本多重次や天野康景らと共に三河の三奉行に任命されます。
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武将としては遠州平定戦、掛川城攻め、姉川の戦い、三方ヶ原の戦いなど主要な戦いに参加して軍功を挙げています。
1584年の小牧・長久手の戦いにも参戦し、この戦いの後処理の際に豊臣秀吉への使者を務め、秀吉に気に入られると豊臣姓を下賜され、従五位下河内守に叙任されるという名誉を受けました。さらに聚楽第造営の普請奉行を務めます。
小田原征伐では秀吉の命を受け、家康の使者として小田原城に赴き、北条氏政・氏直父子と交渉の任にあたりました。小田原征伐後、武蔵岩槻に二万石の所領を与えられています。
このときに預け地一万石も与えられていました。預け地の年貢は清長が使ってもよかったのですが、一度も自分の手にすることなく一万石の年貢を全て江戸へ送っています。
文禄の役で軍船建造を担当し、余った建造費である金二十枚を家康に返上しようとするなど、清廉潔白な性格は家康の信頼も厚い武将でした。関ヶ原の戦い後も岩槻城主のまま平穏な余生を送り、七十九歳でこの世を去っています。