板倉勝重は、徳川家康の家臣である板倉好重の次男として生まれました。幼い頃に出家して玉庵和尚の弟子となり、永安寺の住職となります。父が亡くなると、板倉家は弟の板倉定重が跡目を継ぎましたが、遠江高天神城攻めで戦死したことを受けて、勝重は家康の命により還俗して板倉家を継ぎました。
勝重は駿府町奉行になったあと、徳川家が関東に移封されると江戸町奉行・小田原地奉行・関東代官を兼任します。
関ヶ原の戦い後、京都町奉行となり、翌年には京都所司代に就任しました。京都所司代は、朝廷や公家の監察、豊臣家や西国大名の監視という非常に重要な職で、このとき、勝重は七千石の加増を受けます。
勝重は何事にも公平な性格で難しい裁判を双方納得する結果とするなど、名奉行といえば誰もが勝重を連想するぐらい調整力に長けていました。その能力を活かして朝廷との交渉を行います。
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1609年に、女官・公家の密通が発覚した不祥事の際には、天皇は朝廷を取り締まるために幕府に処分を依頼しました。
勝重が家康の指示を仰ぎ、また京都で問題の公家らを取り調べ、最終的に関係者を流罪にします。この事件で幕府が朝廷の問題に介入し、この先例をもって後世にも影響が出ました。この功労により一万石の加増があり、一万六千石の大名になりました。
勝重は大坂の陣でも活躍します。大坂の陣の、きっかけとなる方広寺の造営の工事監督を務め綿密な報告を家康に対して行い、方広寺鐘銘問題では金地院崇伝らと共に裏でことを進め、大坂の陣が始まってからも大坂城五人衆の入城など大事な情報を素早く家康に伝えました。
豊臣家寄りであった朝廷の動きを封じこめ、政治の面でも徳川家への加担に働きかけを行いました。 大坂夏の陣で豊臣家が滅ぶと、幕府は朝廷の締め付けに着手し、禁中並公家諸法度を公布します。
これに対して朝廷側はかなりの不満がでましたが、勝重が当制度を伝えることにより、公家衆に有無をいわせませんでした。
その後、板倉勝重は1620年まで京都所司代を務めた後、京都堀川に隠居。七十九歳の生涯でした。