土井利勝

土井利勝は、土居利昌の長男との説、徳川家康の落胤など諸説がありま。陽明は松千代といいます。
利勝は江戸幕府二代将軍徳川秀忠の側近第一号、「家康二十将」「寛永の三輔」のうちの一人と言われています。幼少の頃から家康に仕えました。
1579年徳川秀忠が誕生後、七歳で秀忠の小姓となりました。豊臣秀次が失脚して、徳川秀忠まで累が及びそうになったとき「伏兵は間道にいる」と深読みして、あえて本道を使って、徳川秀忠を京都から伏見まで安全に護送した話もあります。
関ヶ原の戦いでは秀忠に従い、殿を務めたことが認められ、それまで与えられていた一千石に加増し、五百石を賜りました。その後、所領を着々と加増していき、四万三千五百石まで達しました。
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秀忠が第二代征夷大将軍に就任すると、利勝も年寄(後の老中)に就任し、江戸で幕政に本格的に参画しました。
大坂の陣では秀忠の下で参戦し、酒井忠世とともに全軍の参謀を務めます。また利勝は秀忠の使いとして、家康との連絡係も務めました。
大坂夏の陣では本軍の主将として戦います。天王寺・岡山の戦いでは酒井忠世とともに秀忠軍の中核を形成しましたが、二人は先走り過ぎて、背後を大野治房に衝かれ、大混乱を引き起こしましたが、一方で敵首九十八を挙げる活躍により、二万石余を加増されて六万五千二百石に所領を拡げます。
戦後、青山忠俊に加えて酒井忠世と利勝は家光の守役に任じられました。
大坂の陣のあと、大御所・家康が没し、秀忠が実権を握ると、いよいよ利勝の権勢は絶大なものとなります。秀忠が没し、三代将軍、家光の時代に移り、利勝はなおも幕政の中心として、次代の幕閣の人材育成にも努めました。
利勝はさらに二万石加増され、下総古河十六万石に転封され、幕閣のトップに身を構えました。利勝が、病を理由に辞職を願い出るも、家光は引き留めましたが、やがて家光も高齢の利勝の負担を気遣い、政務の中心から外すことを認めました。
1644年に七十二歳で死去。政治家としてとても優秀な人物でした。

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