平岩親吉

平岩親吉は、1542年に平岩親重の次男として生まれました。今川義元のもとに人質として預けられていた徳川家康と同年であったことから、駿府に送られ家康の小姓として仕えます。
家康の初陣では家康に付き従って親吉も初陣を飾ります。家康からの信頼も厚く、三河平定や遠江平定戦などで武功を挙げ、徳川家康の嫡男・松平信康が元服したときには傅役になりました。
ところが松平信康とその母築山殿が、武田家との内通の嫌疑がかかり、織田信長の命により信康の切腹が家康に要求されます。
このとき、親吉は責任を自分が被り、自らの首を信長に差し出すことを求めました。それでも信康の切腹を避けることはできませんでした。家康から信康を預かりながら、信康の切腹という結末を迎えた親吉はその責任を感じて身を引きます。
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本能寺の変が起こったあと、しばらくして家康が親吉の復帰を頼み込みました。親吉は再び重臣として復帰します。このとき親吉は信康の旧臣を自らの家臣としました。
家康が上洛したとき、これに従い、主計頭に任官、現群馬県前橋市に三万三千石を与えられました。
親吉には嗣子がいなかったため、家康の子・仙千代を養子に迎えましたが、六歳で亡くなってしまいます。子のない親吉に実子を養子として与えるほど、家康からの信頼は絶大でした。
関ヶ原の戦いの後、甲州新府で六万三千石を賜り、更には犬山に十二万三千石に与えられます。
松平義直の世話役に任ぜられてより尾張に移ったときには、親吉は家康より、尾張一藩の政務を委任する黒印の書状を賜りました。これ以来、平岩親吉の権勢は尾張国中に拡がります。
名古屋城築城の際には、総指揮官を務め、また名古屋の街づくりに尽力しました。
家康、その子孫に尽力した平岩親吉は、1611年名古屋城において七十歳で死去しました。
家康は親吉の家系が断絶することをあくまでも惜しんでいましたが、犬山藩の所領は徳川義直に譲るように遺言していたといわれ、平岩家は断絶しています。
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