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    Categories: 武将紹介 徳川家

大久保忠世

大久保忠世は、1532年に三河で松平氏家臣大久保忠員の子として生まれました。幼名「新十郎」と言います。初陣は、1546年でしたが、この初陣を皮切りにして松平家の戦力として活躍し続けました。
松平氏当主である松平広忠が1549年に暗殺され、松平広忠の嫡子徳川家康を人質としていた今川氏は、松平氏を支配下に置いて三河を実質的に支配していました。
今川義元軍と織田信秀軍が衝突した蟹江城攻略戦では、今川軍の先鋒として蟹江城へ攻めかかります。このときの戦いぶりから、大久保忠員・大久保忠佐・大久保忠勝・杉浦吉貞・杉浦勝吉・阿倍忠政たちとともに「蟹江の七本槍」と称されました。
桶狭間の戦いで今川義元が織田信長に討たれると、徳川家康の独立を支えます。三河一向一揆では家康を支え、一揆勢と戦うだけではなく、停戦の交渉にも尽力しました。
三方ヶ原の戦いでは、武田軍の圧倒的な勢力に屈し、徳川軍は壊滅。忠世は敗戦した日の夜に自部隊を率いて武田軍へ決死の夜襲をかけ、徳川軍の面目を果たします。
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長篠の戦いでは、弟、忠佐との活躍が信長の耳にも届き、徳川家は良き忠実な家臣がいて羨ましいといわしめています。このあと、徳川軍において対武田交戦の中心となり、二俣城の戦いでは徳川軍を率いて奮闘し、落城後には二俣城主に任命されるまでにいたりました。
本能寺の変後に、信濃国と甲斐国など織田氏領へ軍勢を進めた北条軍を牽制します。忠世は家康から、長野の佐久地方を統治する信州奉行に任じられ重要な役割を果たしました。
小田原征伐後に家康が関東に移封されると、忠世は要衝である相模国小田原を与えられ、四万五千石を領します。
1594年に家康が天下人になることを期待して六十三歳で死去しました。後に、家康に功労のあった家臣を示す徳川十六神将にも忠世は数えられています。主君のためなら命も惜しむことはないという三河武士の気骨が強かった武将です。

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