奥平貞昌

奥平貞昌は、三河奥平定能の長男として生まれます。祖父・奥平貞勝の代までは今川氏の傘下でした。桶狭間の戦いで今川義元が敗れると、三河における今川氏の影響力が弱くなり、徳川家康に属することになります。
その後、甲斐の武田信玄が駿河の今川領へ侵入を契機に、調略を受けると武田氏に属しました。武田家に貞昌の弟、仙丸と一族の娘などを人質に送っています。
信玄による三河侵攻では徳川軍と戦い、三方ケ原の戦いでは武田家臣の山県昌景の軍勢に加わり功績をあげました。
信玄が倒れ武田軍が甲斐へ引き揚げると、徳川家康は奥三河における武田氏の勢力牽制のために、奥平氏を味方につけることを考えました。織田信長の意見を聞いて、奥平氏を懐柔させるために亀姫(築山御前長女)を貞能の嫡男貞昌に婚家させること、領地を安堵することなどを条件に交渉があり、奥平氏は再び徳川家の家臣になりました。
奥平氏を継いだ二十歳の奥平貞昌は、わずか五百余人の兵と二百挺の鉄砲を与えられ、長篠城を死守することを命じられます。危険な任務だと承知で貞昌は引き受けました。
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奥平氏の離反に激怒した武田勝頼は、1575年に大軍を率いて長篠城へ押し寄せます。長篠城主であった貞昌は長篠城に籠城。貞昌の家臣である鳥居強右衛門等の決死の働きもあって、織田・徳川連合軍が援軍に到着するまで長篠城を死守しました。その結果、長篠の戦いにおいて織田・徳川連合軍は武田軍を破り勝利。
この功績により、翌年貞昌は、信長から一字をもらい信昌と改名し、信長のとりなしで家康の長女亀姫をめとり、四男一女をもうけました。
家康は名刀大般若長光を授け、奥平家の重臣十二名に対して一人一人に労いの言葉をかけ、彼らの知行地、子孫の待遇を保障するという御墨付きまで与えています。
家康が、関東へ国替えとなった際、貞昌はこれに従い、上野国三万石を賜りました。関ヶ原の戦いでは本戦に参戦。関ヶ原の戦いの軍功として、上野三万石から美濃国十万石へ加増転封されます。1598年12月11日、伏見城下において病没。六十二歳の生涯でした。
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