上杉景勝

上杉景勝は、1555年に長尾政景の次男として生まれました。幼名は喜平次といいます。母は上杉輝虎(上杉謙信)の実姉・仙桃院。
景勝が九歳の頃に父・政景が溺死します。享年三十八歳。舟遊びの最中、酒に酔っていたため溺死した説、謙信の命を受けた宇佐美定満による謀殺などありますが、真相は分かっていません。
父・長尾政景の死後、上杉謙信の養子となり、元服して名を「長尾顕景」と改めました。直江兼続も景勝に小姓として従い春日山城に入っています。
1656年に初陣で関東出兵に参加。以降、景勝は長尾顕景から上杉景勝に改め、上杉謙信から弾正少弼の位を譲られました。上杉家軍役帳によると総勢375人の軍役を負担し、上杉一門衆筆頭として記載されています。
1570年、謙信は後北条氏から人質として出された北条氏康の子である北条三郎(上杉景虎)を養子に迎えます。謙信は景虎のことをとてもかわいがっていました。
1578年、謙信が後継者を明確にしないまま急逝。相続を巡って北条氏から養子に来ていた義兄弟の上杉景虎と争います。
当初は実家である北条氏とそれと手を組んでいた武田家の援助で景虎方が優勢でした。景勝方は甲越同盟で武田氏と和睦して北条氏を牽制するなど、次第に形勢を巻き返し始ます。
一年の対立の末、景勝が勝利を収めましたが、それまで精強を誇っていた謙信時代の軍事力が著しく低下します。翌年この機を逃さず、織田信長の家臣・柴田勝家、佐々成政の軍勢が領内に侵攻しました。
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柴田軍の侵攻が進み、越中を完全に柴田軍に制圧(魚津城の戦い)されて上杉家は窮地に立たされます。魚津城落城の直前、本能寺で信長が討たれると柴田軍は引き上げました。
その後、信濃を巡って北条氏直と対立。北信濃四郡の割譲を条件に北条氏と講和します。その頃から豊臣秀吉に誼を通じて従うようになりました。景勝の真面目な性格が秀吉に評価され豊臣家の五大老に列します。秀吉の命で亡き蒲生氏郷に代わって東北監視の為に会津百二十万石に加増移封されました。
秀吉の死去後、関ヶ原の戦いで西軍として戦います。東軍の勝利がきまると徳川家康に降伏。このとき、出羽庄内、会津を没収ののち、三十万石の米沢へ減移封されます。大坂の陣には家康方として参陣。享年六十九歳でした。
偉大な謙信の背中を追うあまり自分に常に厳しく、寡黙で剛直律儀、勇猛果敢で誇り高い性格だったようです。
家臣の掌握にかけては決して謙信に劣っていません。
魚津城落城の直前に佐竹義重へ一通の書状を送っています。
「なかんずく景勝はよき時代に出生し、弓箭を携えて、六十余州を越後一国をもって相支え一戦を遂げ滅亡せしむこと、死後の思い出、景勝にははなはだ不相応に候か。もし又死を出でて一生せしむるにおいては、日域(=日本)無双の英雄たるべきか。死生の面目・歓悦天下の誉れ、人々その羨み巨多たるべきか。」
(こちらのことは心配いりません。私は良い時代に生まれました。もはや武田は滅び、私は越後一国で日本六十余州と戦います。もし生き残ることができれば古今無双の英雄となるでしょうし、死んでも歴史に長く名を残すでしょう。まこと武門の家に生まれた者として果報なことです。)
信長や家康など強大な相手に対しても、決して卑屈な態度はとらず、直江兼続との二人三脚で戦国の荒波を乗り切りました。

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