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    Categories: 武将紹介 上杉家

直江兼続

直江兼続は1560年父長尾政景に仕えた樋口兼豊の子としてとして生まれました。
上田長尾家当主の長尾政景が死去すると、上杉謙信の養子となった上杉景勝に従って春日山城に入り、そのまま景勝に仕えます。
謙信の死後1578年の御館の乱では、父・兼豊と共に景勝方に付きました。
1581年に景勝の側近である直江信綱と山崎秀仙が、毛利秀広に殺害されると、跡取りのない直江家を継ぐことを命じます。こうして兼続は景勝の右腕となりました。
このころ景勝は北陸で柴田勝家ら織田信長軍と戦っています。1582年に織田信長・徳川家康連合軍が武田勝頼を滅ぼすと上杉家にも危機がおとずれます。
同年、信長が本能寺で明智光秀に討たれました。信長の死後、光秀を討ちとり実権を握った秀吉が柴田勝家を滅ぼした際に景勝と提携しました。
景勝と兼続は秀吉に会うため上洛。秀吉に臣従します。景勝が従四位下・左近衛少将に、兼続は秀吉に気に入られ従五位下に任じられました。陪臣としては破格の待遇です。
豊臣政権下で、景勝は五大老にまでのぼりつめることとなり、越後九十二万石から会津百二十万石に加増されました。また、兼続も陪臣ながら米沢に六万石(寄騎を含めると三十万石)を与えられます。「天下の政治を安心して預けられるのは、直江兼続・小早川隆景・堀直政など数人にすぎない」と秀吉から最大の評価を得ています。
その後、佐渡征伐、小田原征伐、朝鮮出兵などで景勝に従い、参謀として活躍を見せます。秀吉が死去すると、石田三成と懇意であった兼続は、家康との対立を決意しました。
やがて関ヶ原の戦いの遠因となる会津征伐を引き起こしました。直江兼続は東軍の最上義光の領地である山形に総大将として三万人の精鋭を率いて侵攻しました。関ヶ原の戦い本戦で西軍が敗れたことが奥州に伝わると、上杉軍は撤退を開始しました。結果として上杉軍の最上侵攻は失敗しました。
1601年景勝とともに上洛して家康に謝罪し、罪を赦された景勝は出羽米沢三十万石へ減移封となり、上杉氏の存続を許されました。西軍に与した大名の中では軽い処分で済んでいます。兼続の外交努力の結果でした。
兼続は新たな土地の開墾を進めるために治水事業に力を入れます。町を整備し、殖産興業・鉱山の開発を推進するなど米沢藩基礎を築き、治世にも長けている武将でした。
上杉家と徳川家の融和を図り、大坂の陣においても徳川方として参戦。戦功を上げました。
兼綱は江戸の屋敷において六十歳で病死。二代将軍秀忠もその死を悲しんだといわれます。

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