直江実綱

越後守護上杉氏の家臣飯沼氏の家臣だった直江親綱の子に生まれました。(後に長尾景虎が継いだ上杉氏は別の上杉氏です。)
上杉謙信の父・長尾為景が越後に勢力を張って飯沼氏が滅ぼされると、飯沼氏の居城だった与板城の城主となりました。
長尾為景が隠居して家督を長男の長尾晴景に譲ると、直江実綱は長尾晴景の家臣として仕えます。
家督を継いだ晴景は越後の混乱を収めることができませんでした。実綱は弟の長尾景虎(上杉謙信)の才覚に惚れ込み、謙信擁立を積極的に押し進めました。
景虎が長尾家の家督を継ぐと、謙信の側近として大熊朝秀、本庄実仍とともに若き謙信を支えます。とくに内政外交の両面で手腕を発揮しました。
景虎が北条氏康討伐の為に関東に出兵すると春日山城の留守居役を務めます。柿崎景家や小島弥太郎といった武闘派ぞろいの家中において、本庄実乃や河田長親といった数少ない政治に長ける武将達と共に家政を切り盛りしました。
[ad#ken1]
実綱は軍神上杉謙信軍団の武将の一人であり、軍事面でも柿崎景家、北条高広、斎藤朝信、長尾藤景、中条藤資ら歴戦の猛将達と並んで本庄実乃と共に七手組と呼ばれる七人の部隊頭の一人に任命されました。
また、最も激戦だった1561年の川中島の戦いにも輸送部隊の小荷駄隊二千を率いて参加し、上杉軍の側面援護を行いつつ、突出した武田信玄の嫡男・武田義信を敗走させ、上杉軍が退却する際に殿軍を務める等軍事面でも活躍しました。
その後は、北条氏康との同盟を取りまとめる等活躍し、上杉謙信となった景虎に重用され「景」の字を賜り、名を直江景綱と改めました。その後も謙信に従って各地を転戦した直江景綱でしたが、1577年に六十九歳で病死しました。

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

ページ上部へ戻る