柿崎晴家は、上杉謙信の重臣・柿崎景家の次男として生まれました。父に負けず劣らずの猛将で、非常に好戦的で武骨な性格でした。
晴家は小田原北条氏の血をひく長尾景虎にひかれ、景虎支持の姿勢を打ち出します。
1570年に、上杉謙信と北条氏康が越相同盟を結んだときに北条氏康の七男「北条氏秀(後の上杉景虎)」を謙信の養子として、西上州に送致することを約束します。子がいない謙信に代わって柿崎景家は北条氏に対する人質として晴家を差し出しました。北条氏康が死去して同盟が破棄されると、晴家は上杉家、父・景家のもとに戻ります。
晴家は景家が死去すると、家督を継いで柿崎家の当主となりました。翌年の『上杉家軍役帳』によると二百六十人の軍役を負担したといわれています。
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謙信の死後、上杉景勝の館を襲います。「御館の乱」のきっかけをつくりました。上杉景勝と上杉景虎との間で家督争いが勃発すると、柿崎晴家は上杉景虎を支持したため、景勝方によって春日山城内で謀殺されたといわれています。しかし晴家の死亡時期や死因には諸説あり、断定されているわけではないようです。
子の千熊丸(後の上杉憲家)を擁した上野九兵衛率いる家臣団の一派が上杉景勝方に与したため、千熊丸を当主として柿崎家は存続しました。