徳川家康の四天王の一人・本多忠勝の長女として生まれました。
十七歳のとき、徳川家康の養女となり上田城主・真田昌幸の長男、真田信之に嫁ぎます。
縁組が結ばれた背景には武田家が残した旧領をめぐり徳川・北条・真田の三家が争った上田合戦がありました。
真田昌幸によって築城された上田城で真田家は徳川家の大軍を相手に勝利。家康と真田氏の領地問題を改善するために豊臣秀吉が仲裁します。
家康は豊臣秀吉の妹・旭姫を正室に迎え秀吉に臣従。秀吉は昌幸、信之を家康に従わせるために、小松姫を自らの養子(一説には秀忠の養子)として、信之へ嫁がせました。
忠勝が自らの娘を家康の養女にしてから嫁がせることを提案したといわれています。
信之二十一歳、小松姫十四歳。
政略的な結婚でしたが、二人は仲睦まじい夫婦で二男・二女という子宝にも恵まれます。
しばらく真田家は巧みな外交を駆使して領土を守っていました。
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天下分け目の関ヶ原の合戦を目前に控えたころ、上杉征討に向かう徳川軍に参陣していた昌幸が石田三成からの密書を受け取ります。
密書の内容は秀吉の遺言に背き、秀頼を見捨て出馬した家康に罪があるとして、秀吉の恩を忘れていなければ、秀頼に忠節を誓い西軍に味方してほしいということでした。
石田三成からの書状を受けた昌幸・信之・信繁が犬伏にて議論の結果。
信之は東軍に昌幸と弟、信繁は西軍に味方することを決め、東西に分かれることになりました。世に言う『犬伏の別れ』です。
信之と袂を分かった昌幸と信繁が、居城である上田城に向かう途中、小松姫が留守を預かる沼田城に立ち寄りますが小松姫は敵となった昌幸の申し出を断り入城を拒否した逸話もあります。
関ヶ原の戦いで西軍が負けたことで沼田と上田の領地は、すべて信之のものとなり、昌幸と信繁は死罪を言い渡されます。
信之が昌幸や信繁の助命嘆願をしたときに、小松姫は実家の忠勝に働きかけました。忠勝も「助命が認められなければ、殿と一戦交える覚悟だ」と啖呵を切って、家康を驚かせたようです。
その結果、昌幸・信繁の助命が決まり、高野山の麓・九度山村に流罪となりました。
昌幸や信繁の高野山配流の後も、金銀や信濃の名産品などを送り、生活を支えていました。それに対し昌幸が小松姫に対しお礼の手紙を送っています。
真田家十万石の基〔もとい〕をつくったのは、小松姫の内助の功によるところが大きいといわれています。
晩年、病にかかり江戸から草津温泉へ湯治に向かう途中、武蔵鴻巣で亡くなりました。
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