甘粕景持

甘粕景持の出生時期については、現存する家系図の中に記述がないため不明です。
上杉謙信・景勝に仕えた重臣で、謙信秘蔵の侍大将の筆頭。上杉四天王の一人です。
記録にあるなかでは、1559年に主君である長尾景虎が上洛して帰国した際に、越後の諸将は長尾景虎の壮挙を祝して太刀を贈りました。
このとき、甘粕景持も「披露太刀之衆」の一人として金覆輪の太刀を贈ったといわれています。
1560年、長尾景虎による関東管領・上杉憲政を奉じた関東出陣に従い、北条氏康の居城であった小田原城攻撃に参戦しました。
また、長尾景虎が関東管領職と上杉姓を譲られ、鎌倉鶴岡八幡宮においてその就任式を行ったとき、宇佐美定満・柿崎景家・河田長親とともに御先士大将をつとめます。
長尾景虎(謙信)は、川中島の戦いにおいて出陣し、甲斐の武田信玄と対峙しました。(第四次川中島の戦い)
この戦いで甘粕景持は殿軍を務めます。千曲川に布陣して妻女山から下る武田軍と激戦を繰り広げました。
あまりの奮闘ぶりに、このとき武田軍では、上杉謙信自ら殿軍となったと勘違いした者が多かったといいます。
柿崎景家と並ぶ武勇を誇る甘粕景持について、『甲陽軍鑑』では「謙信秘蔵の侍大将のうち、甘粕近江守はかしら也」、『松隣夜話』では「勇気知謀兼備せる侍大将」と称賛されています。
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上杉謙信が死去したあとは上杉景勝に仕えました。
1582年の新発田重家の乱に際して、上杉景勝から三条城将(六千石、含む同心分)に命じられ、木場城の補佐や新潟城・沼垂城攻略に参加し、城攻撃の兵站基地を守備するという重責を担いました。
1586年、新発田征伐に際して第二陣に加わり、鉄砲大将として笠堀に布陣、河田憲親・高梨薩摩守・千坂対馬守・竹俣房綱らとともに敵将を討ち取る戦功をあげました。こののちに上須地景勝から戦功を賞賛され感状を受けました。
内政の面では、家老・直江兼続の命により、上松弥兵衛と共に蒲生郡出雲田庄、大槻庄、保内の検地奉行となりました。上杉氏の会津若松、米沢など、二度の移封に従います。
甘粕景持は1604年に米沢にて死去しました。子孫は米沢(山形県)上杉藩士として続いたといいます。

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