北条高広

北条高広は、北条広春の嫡子とされていましたが近年は北条高定の子の説が浮上しています。生まれた年は定かではありません。
北条氏(「きたじょうし」と読みます)は、鎌倉幕府の大江広元を祖とする毛利氏の出自であると言われています。
1530年ごろに北条高広は北条氏を継ぎました。1530年より始まった上条の乱では長尾側(後の上杉氏)につき、北条城で上条定憲を筆頭とした上杉勢(山内上杉家)と激戦を展開しました。北条高広が北条城主となったのはこのころです。
1553年になると、武田信玄の北信濃への進撃が激化し、反武田の筆頭であった村上義清は長尾景虎(謙信)に救援を求めました。これに対し長尾景虎はすぐさま軍を川中島に派遣しました。第一次川中島合戦です。
翌年、武田信玄は北条高広に内応を促す書状を送りました。北条高広はこれに応じ、長尾景虎に背きます。しかしこれは同じ一族である安田景元によって長尾景虎の知るところとなり、長尾景虎みずからが兵を率いて北条城に出陣しました。北条高広は、結局これに対して降伏します。このころから北条氏は長尾家臣となりました。
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その後1560年に落城した上野厩橋城の城主となりました。この城は沼田城などとともに上野の上杉勢にとって重要拠点でした。
1564年の武田家進攻の際には上杉謙信本隊の山越えが遅れ、武田氏と戦うために出陣しました。しかし上野には西から武田、南からは後北条家が迫ります。このとき上野の上杉側領主はいっせいに北条氏に寝返り、北条高広も後北条家に寝返ります。その後、相越の関係が改善すると北条高広も再度上杉家へ帰還しました。
1574年には子の北条景広に家督を譲り大胡に隠棲しました。
上杉謙信の死後、上杉家は家督相続争い、いわゆる御館の乱が始まりました。北条高広は上杉景虎方につきましたが、この乱は相手の上杉景勝側が勝利しました。北条高広は武田勝頼に身を寄せるがこれも織田家により滅亡。滝川一益に帰順します。
その後上杉景勝と和解したようですが、一族の地である北条城への帰還は果たせず、1587年にしたためられた書状を持って北条高広についての記録は途絶えています。

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