武田信繁

甲斐武田氏十八代信虎の子で、信玄の弟。幼名は次郎。通称、左馬助を称したことから、左馬助の唐名である「典厩」の名で親しまれます。幼い頃から利発で、信虎に寵愛されていました。父、信虎は長男の晴信を疎んじ、弟の信繁に家督を譲ろうと考えていました。そんな環境でも信繁は兄晴信を支え続け家督を継ぐ意思はありませんでした。
戦いを続け独裁的になっていく信虎を追放して晴信が家督をついだあとは、その補佐役に徹します。村上義清との戦いに先鋒として出陣や晴信の命令を家臣に伝える役をこなし晴信の右腕として活躍。また、晴信が京の公家を躑躅ヶ崎館に迎えたときなどは、同席して、一緒に和歌を詠んだりもしています。
文武両道に優れた人物で武田二十四将の一人。副大将として位置づけされていました。
第四回川中島の合戦で武田軍は上杉軍を前後から攻撃する“きつつきの戦法”を策しました。これを見破った上杉謙信は気づかれぬように山を下り奇襲攻撃を仕掛けます。逆に奇襲を受けてしまった武田軍が大混乱に陥りました。信繁は味方の劣勢が明らかになるのを見て、兄の身を案じ、自分が敵を引き付けている間に勝利の算段をと信玄に伝令させました。
群がりよせる上杉軍の中に討って出て、信繁は死力を尽くして守り抜き、花々しい戦死を遂げました。兄を守るため上杉軍と戦った信繁の勇姿は、謙信や信長など敵対する武将らもその勇敢な最後を讃えたと言われています。
晴信は信繁の死体を抱くと号泣したと伝えられ、武田家臣団からも「惜しみても尚惜しむべし」と評され、もし信繁が生きていたら、信玄の長男・義信が謀反を起こすことはなかったといわれるほどでした。
信繁が後世に残した「信繁家訓九十九ヶ条」は嫡子・信豊のために武将としての心構えを説いたものでしたが、なかでも家臣との主従関係を示したものは、晴信にも影響を与え、また江戸時代でも武士の心得として読みつがれています。
第一条「屋形様(晴信のこと)に対して未来永劫逆意を抱かないこと」
晴信への絶対服従を命じているものですが、信繁の兄に対する愛情を感じます。兄を支え続けた姿は「家訓」という形で残りました。

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