山本勘助

武田家の軍師として有名ですが、山本勘助の存在を架空の人物だと思われた時代が長く、その理由に勘助の事が書かれた確かな文献が『甲陽軍艦』以外には見られないことや、武田晴信(信玄)から、与えられたという「晴幸」の「晴」の文字は、晴信が元服の折りに、将軍足利義晴から一字賜ったもので、この「晴」の字を、家臣に与えるはずはないなどの理由から実在が否定されてきました。
ところが、1969年に北海道でこれまで否定されてきた勘助の実在を示す文献『市河文書』が発見されます。その内容は、第三次川中島の戦いの最中に、武田晴信が、信濃の豪族市河家宛てに上杉謙信を撃退した感謝状で、その末尾に山本勘助が口上で伝えると書いてあったそうです。
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『甲陽軍艦』によると、山本勘助は諸国を流浪しながら、兵法や武術を習得しましたが、背が低く、イノシシ狩りの際に片目を失明したといわれ隻眼で、足も引きずり歩く風貌からなかなか仕官されない浪人でした。勘助の兵法家としての名声が次第に諸国へと伝わり、武田晴信に召し抱えられることとなります。
諸国を流浪したときに得た見識と軍略で晴信を支え、信濃侵攻がはじまると、勘助は次々と城を落として才を発揮します。
晴信が諏訪頼重を倒したときに、その姫を側室に望みました。姫は武田家に恨みを抱いており危険だと、こぞって重臣達が猛反対します。
しかし勘助は姫が晴信の側室となり子を産めば、武田家と諏訪家の絆となりえると主張しました。側室となった姫は(諏訪御料人とよばれる)、次の武田家当主となる勝頼を生みます。
勘助は数々の武功をあげて足軽大将となり、のちに武田家の五名臣(原虎胤、小幡虎盛、横田高松、多田三八郎、山本勘助)の一人、武田二十四将の一人とよばれました。晴信が、出家して法号を信玄と名乗り、勘助もこれにならって出家して道鬼と称します。
第四次川中島の戦いで、別働隊で妻女山に陣をはる上杉謙信を夜陰に乗じて背後から襲撃し、出てきたところを本陣が討つという『啄木鳥戦法』をとりましたが、謙信には見抜かれていました。この戦いで、武田家の武将が次々と討死。自軍を窮地に立たせたことに責任を感じて、本陣を守るために奮戦しましたが力尽きました。川中島合戦で戦死するまで信玄の知恵袋として活躍した生涯でした。

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