幼名は孫十郎。遠江の出身で、父親が甲斐 武田家に仕官し信虎に仕えるために、子 孫十郎も一緒に甲斐の国に入りました。
信虎に反旗を翻した今井信是を鎮圧するために、父親が出陣し討死すると、孫十郎は、十四歳で家督を継ぎました。信虎のもと、まだ統一されてなかった甲斐の国での今川氏や北条氏との戦いで原虎胤らとともに活躍します。
信虎から偏諱を受けて『虎』の文字を賜り、虎盛と名乗り、豪傑な活躍から「鬼虎」と称されました。
足軽大将となり、武田二十四将の一人、武田五名臣の一人(他に、原虎胤、横田高松、多田三八郎、山本勘助)といわれたそうです。信虎が、駿河に追放されてからは、晴信に仕えました。
晴信が出家して信玄と号すると、原虎胤、真田幸隆らと共に剃髪します。日意と号しました。高坂昌信(春日虎綱が正しいとも言われています)の副将となり、対立する上杉謙信の抑えとして海津城に入りました。しかし、病のため、第四次川中島の戦いの直前に七十一歳で生涯を終えました。
病床で息子の昌盛に遺言として『よく身のほどを知れ』という言葉を残しました。虎盛が死去したため、昌盛が家督を継ぎ、姓を小幡と改め父親に引き続き、高坂昌信のもと海津城の守りにつきました。
信玄の計らいで、鬼美濃と異名を持つ原虎胤の娘を正室にむかえました。昌盛は、信玄近くで務めたいと願いでますが、信玄の怒りをかい、蟄居切腹を命ぜられます。
諏訪勝頼や土屋昌続の懇願で信玄の許しを得て、足軽大将として留まりました。長篠の戦い以降、病床にあって参戦できない昌盛は勝頼にお暇乞いをして武田家滅亡の五日前に病死したといわれています。享年四十九。昌盛の三男に、『甲陽軍艦』の編者の一人として有名な小幡景憲がいます。