土屋昌次

武田晴信の守役である金丸虎義の次男で、武田家譜代家老の子として生まれました。
武田信玄の嫡男 義信の謀反を起こしたとき、家臣を鎮静させ取り纏めるために山県昌景や甘利信忠らと共に奔走します。
『甲陽軍艦』によれば、それ以降は、信玄側近衆として三枝昌貞、曽根昌世、真田昌幸、甘利昌忠、長坂昌国らと一緒に「奥近習六人衆」と呼ばれ、取次という新しく支配下においた地域の国人衆と交渉(今でいう外交官的な働きで領内の治政において重要な役目)で活躍しました。
もっとも激戦であった第四次川中島の戦いでは信玄の本陣を守りきり、それが大きく評価され甲斐の名門である土屋姓への改姓が許されて、土屋氏を名乗ります。
駿河の今川侵攻に際しては、富士山本宮浅間大社や岡部氏、朝倉氏などの駿河国衆との取次に奔走して各地へ侵攻。新しく武田家支配下となる国衆との取次に活躍していきました。
上洛を試みた信玄が道半ばで病没してしまうと殉死を願いでますが、高坂昌信らの説得で思いとどまりました。
信玄亡き後、家督を継いだ勝頼にも仕え、長篠の戦いにも参戦します。設楽が原に織田軍が作った馬防柵による鉄砲三段撃ちで武田騎馬軍団は次々と倒されていき、土屋昌次も三十一歳で壮絶な死と遂げました。
この戦いで昌次と長男が亡くなり、家督を継いだ昌恒も勝頼に仕え最後まで勝頼に従います。
天目山で追い詰められた勝頼が自害を覚悟した際、昌恒は織田勢に討って出て、時間を稼いで討死しました。昌恒の遺児 忠直は母と共に母方の駿河に逃れていたが、そうした土屋氏の武勇を知る徳川家康に養育され、召し抱えられました。徳川家康の嫡男 秀忠の小姓となり、上杉征伐で功績をあげ久留里藩主として大名に取り立てられました。忠直の子 土屋数直は、徳川三代将軍家光に近習して、老中にまで昇り詰め、常陸の土浦藩主となり、土屋家は明治維新まで続きました。

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