仁科盛信

武田二十四将の一人。武田信玄の五男で、母は側室 油川夫人です。
異母兄は、武田義信、武田勝頼です。信玄の死後は、武田家の家督をついだ勝頼に仕え、高遠城主となりました。
織田・徳川軍との長篠の戦い後は、武田から織田勢へ寝返る者や、逃亡する武将も相次ぎ、次第に武田家は衰退。そんな状況でも盛信は武田家へ忠誠をつくします。甲斐侵攻を進める織田軍は、盛信が守る高遠城へと迫りました。
織田軍の総大将である織田信忠は降伏を促す書状を送りましたが、盛信は断る書状をしたため、使者として遣わした僧侶の耳を削ぎ落とし、突き返したといいます。
織田軍五万に対して、高遠城を守るのは兵はわずかに三千。織田軍の攻撃が始まると、すでに降伏し寝返った武将の手引きで援軍の得られないなか、盛信は、決死の覚悟で戦いに挑み奮闘します。
必死の抵抗をしましたが、兵力の差はどうにもならず盛信は自刀。享年二十六歳の生涯を終え、高遠城は落ちました。
武田家家臣の中で寝返りや逃亡をせず、徹底抗戦したのは盛信だけでした。首のない遺体は農民が探しだして火葬し山に埋葬したので、その山を『五郎山』と呼ばれているようです。
盛信の子 信貞、信基は、織田軍が高遠城に侵攻してくる直前に、城を脱出し生き延びました。武田家滅亡後は、徳川家臣となった武田遺臣のとりなしで、徳川家康と対面した時、敗戦の武将の子として罰せられると危惧しましたが、仁科氏の存続を許され、徳川家の旗本として江戸時代を乗り切り、現在も続いています。

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