原虎胤

下総国の千葉氏の一門で、原友胤の子として生まれましたが、合戦で領地を追われ、甲斐の武田氏を頼り信虎家臣となりました。
父、友胤が仕官した頃は、まだ甲斐は統一されておらず、いくつかの合戦を経て足軽大将として活躍し、虎胤も信虎から「虎」の一字を賜り虎胤と称し武功に励み、美濃守となりました。
友胤亡きあとも、虎胤は武田信虎、晴信のもとで活躍し、武田家臣の中で、確固たる地位を築いていきます。虎胤は『鬼美濃』と呼ばれ、豪傑として津々浦々で恐れられていました。浄土宗と日蓮宗との勢力抗争がおこると、虎胤は浄土宗を支持しました。
このことで武田家の法律である『甲州法度之次第』の一宗一派に属してはならないということに抵触したと疑われ、甲斐を追放されます。
その後、北条家に仕官した虎胤は武勇に長けた人材として歓待され、手厚く扱われました。
善徳寺の会盟(武田、北条、今川の間で同盟が結ばれた)の際、晴信のもとへ帰参しました。晴信が、剃髪し信玄となると、虎胤も剃髪し清岩と号しました。
第四次川中島の戦いの前哨戦である信濃国境の割ヶ巌城の戦いで負傷し、川中島の戦いには参戦せず、その後、病気で六十八歳の生涯を終えました。
武田二十四将の一人、また武田五名臣(小幡虎盛、横田高松、多田三八郎、山本勘助、原虎胤)の一人と呼ばれました。虎胤は、鬼美濃と称され、生涯に合戦に参加した数が三十八回、全身に受けた刀傷、矢傷は五十三か所あったといわれ、武勇に長け豪傑と恐れられた武将ですが、戦場で負傷した敵将に自分の肩を貸し、敵陣へ送り届け、再び戦場でお目にかかろうと言ったという情け深い行動をとったともいわれています。
原虎胤が病死すると、武田信玄は、虎胤の武功にあやかり、劣らぬ人物になるようにと馬場信春に、美濃守を名乗らせ、馬場美濃守信春と改名させました。虎胤の長男 康景は、父と同じ武田五名臣の一人と呼ばれた横田高松の娘の婿養子となりました。

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