堀尾吉晴

戦国の三天下人に仕え、戦国を見事に生き抜いた武将です。吉晴は尾張の豪族である堀尾泰晴の長男として生まれました。
初陣である岩倉城の戦いで一番首を取る功名を立て、人々はその豪勇に驚いたといいます。織田信長に仕えたのち、早くから秀吉に従って各地を転戦します。
稲葉山城攻めでは、織田軍の稲葉山城に通じる裏道の道案内役を務めたといわれています。以後の秀吉の戦いにほとんど従軍して領地も加増されていきました。
本能寺の変により、明智光秀が信長に反旗を翻し主君を討ち取ったあと、その弔い合戦である山崎の戦いで中村一氏とともに鉄砲頭として参加しました。天王山争奪戦の際には敵将を討ち取るという功績を挙げ、丹波国氷上郡内(黒井城)で六千二百石となりました。
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その後も戦功を重ね、
天正十一年 若狭高浜城主(一万七千石)
天正十三年 近江佐和山城主(四万石)
天正十八年 遠江浜松城主(十二万石)
秀吉の信任も厚く、五大老と五奉行の間を調整する三中老の一人に任ぜられ豊臣政権に参与します。
秀吉死後は徳川家康に接近し、関ケ原の戦いでは東軍につきますが、三河国池鯉鮒での刃傷事件で重傷を負い参加できませんでした。かわりに子の忠氏が出陣しています。戦後、功により忠氏は出雲隠岐二十四万石を与えられます。
吉晴は先の事件で受けた傷の療養を埋由に引退を願い出で家督を忠氏に譲りましたが、忠氏は間もなく早世し、孫の忠晴は幼少のため吉晴が国政を執りました。
吉晴は、忠氏の遺志を継ぎ松江城築城に着手、五年の歳月を費やした築城工事の完成を目前にして、六十九歳で亡くなりました。

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