浅野幸長

浅野長政の長男として生まれました。父の長政は豊臣秀吉の正室おねの義弟で、豊臣政権で五奉行の一人です。
幼少より秀吉に仕え、若くして学問によく通じ経学を藤原惺窩、堀杏庵に学びます。
十五歳で秀吉の小田原攻めに従軍します。父とともに岩槻城を攻め首級を得るなど抜群の働きを見せて秀吉に賞されました。
幸長の武勇には諸大名も一目置いていたといわれていて、文禄の役の最中に秀吉は長政、幸長に甲斐一国、二十二万五千石を与えます。内訳は幸長が二十二万五千石のうち、十六万石を領すもので、秀吉は長政よりも幸長を高く評価していました。
姻戚関係から関白・豊臣秀次の失脚に連座し能登に配流されましたが、前田利家・徳川家康のとりなしにより、まもなく復帰しました。
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秀吉は文禄の役のあと朝鮮への再出兵を実施。慶長の役で幸長は再度渡海します。
加藤清正、毛利秀元、幸長の軍勢を中心として蔚山城の築城を行っていました。
築城が終わったばかりの蔚山城が明・朝鮮の連合軍に襲われ籠城戦へと突入します。
城を包囲するのは、明軍を主体とした六万近い大軍。籠城側は一万に満たない兵力で兵糧の備蓄も充分でないままでした。
そんな状況の中で加藤清正、太田一吉、そして幸長が大量の戦死者を出して激戦を展開。激しい攻撃に耐えながら無数の銃弾を浴びせて持ちこたえます。
兵糧のない状態が続いたため清正が玉砕の覚悟を決めていましたが、毛利秀元ら一万三千余りの救援により城を持ちこたえることができました。
幸長は砲術を稲富直家に学んでいたようで蔚山城の激しい攻防戦を戦い抜くことができたのは稲富流砲術のおかげだと直家に感謝状を贈っています。
朝鮮でともに戦った加藤清正・福島正則ら武断派につき、五奉行の石田三成らと対立。前田利家の死去後には福島・加藤らとともに石田三成を襲撃しました。
関ヶ原の戦いでは徳川家康率いる東軍につきます。毛利秀元、長束正家などの西軍勢を牽制して戦後、紀伊国和歌山に三十七万六千石を与えられました。
すべて順調に見えた幸長でしたが三十八歳でこの世を去ります。死因は腎虚(花柳病)でした。徳川家康の天下を認めながらも、終生にわたって豊臣氏に忠誠を誓い続けました。そのため、清正のように家康一派によって暗殺されたのではないかという説もあります。幸長には男児がなかったため、家督をめぐって弟の長晟と長重が争い、長晟が継ぎました。
また、長晟の代に福島家が改易されたことに伴い、浅野家は安芸国広島藩に加増・転封されました。

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