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    Categories: 武将紹介 豊臣家

渡辺勘兵衛

渡辺勘兵衛は渡辺了とも呼ばれます。1562年に生まれました。記録に残る限りは、浅井氏麾下の阿閉貞大に仕えていましたが、やがて阿閉氏のもとを離れています。
その後、羽柴秀吉の養子羽柴秀勝に仕えました。羽柴秀勝が病死した後、中村一氏に三千石で仕えます。後北条氏攻めで秀吉から称賛され戦功をあげました。三千石から六千石の加増でしたが、恩賞に不満を持って再び出奔します。槍の勘兵衛といわれるほどの侍を世の大名が放ってはいませんでした。
中村一氏の次に増田長盛に仕えます。関ヶ原の戦い時には、主の長盛は西軍に着き、勘兵衛は長盛の居城である大和郡山城の守備につきました。戦いが東軍の勝利に終わると勘兵衛の主、長盛も大和郡山城も取り上げられて高野山へ蟄居を命ぜられます。長盛がいなくなっても勘兵衛は城を守り続けていました。
藤堂高虎が城の受取りの任を受けて大和郡山城へ赴きますが、勘兵衛は長盛の命で城を守っているので、長盛の命以外で守りをとくわけにはいかないと城の門を堅く閉ざして開城を拒みます。高虎は力ずくで城を落とすこともできましたが、話し合いによる開城の方策をとりました。
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高虎は高野山にいる長盛に使者を送り、大和郡山城を開城するようにしたためてもらうと、その書状を勘兵衛にわたしました。長盛からの書状を読んだ勘兵衛は堂々と城を明け渡します。このとき勘兵衛の行動は武士としての意地と名誉を貫いたものと称賛されました。相手方にいた高虎自身も勘兵衛に惚れ込み、このあと勘兵衛を破格の高禄で自分の元に召し抱えます。
大阪の陣で勘兵衛は高虎の将として奮戦しますが、大阪の陣のあと高虎と対立して、またも勘兵衛は浪人となります。この後、多くの仕官の口があったものの、高虎を最後に誰にも仕えませんでした。
その肥えた目で主を見極め、武将たる生涯を送り、主君を転々とした人生の幕を京都で閉じました。享年七十九歳。

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