脇坂安治

脇坂安治は脇坂安明の長男として、近江浅井郡脇坂庄で生まれました。はじめ浅井長政に仕えましたが、浅井氏滅亡以後は、織田家に仕え羽柴秀吉の家臣となりました。秀吉の命をうけて、明智光秀の丹波・黒井城攻めに援軍に赴きます。このときに丹波の赤鬼といわれた敵将、赤井直正に投降を勧めるために使者として黒井城に乗り込みます。
敵城に乗り込んできた安治の勇気に感じた直正は、降伏は受け入れなかったものの、その武勇を賞され、赤井家伝来の家宝である雌雄の貂の皮の槍鞘を拝領しました。安治は貂の皮を二本の旗指物にして戦場を駆けます。貂の皮は以後、脇坂家の代々家宝となりました。
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播磨・三木城、神吉城攻めなど、秀吉の諸戦に従軍して功を重ねます。1576年には百五十石を与えられ、1578年の三木城攻めでは秀吉より白輪違紋入りの赤母衣を賜り、以後家紋としました。
賤ヶ岳の戦いで福島正則や加藤清正らと共に活躍し、賤ヶ岳七本槍の一人に数えられ、その戦功により山城国に三千石を与えられます。
小牧・長久手の合戦では伊賀上野城を攻略するなどの手柄をあげ、1585年、羽柴秀吉より摂津能勢郡に一万石を与えられました。
その後、八月に大和高取で二万石、十月には淡路洲本で三万石を与えられ順調に出世していきます。
その後は加藤嘉明や九鬼嘉隆らと共に水軍衆の指揮官を務め、九州征伐、小田原征伐や朝鮮出兵などに従軍しました。水軍などで活躍した朝鮮における一連の功績から、淡路内の直轄領より三千石を加増。ついに三万三千石の大名となりました。
秀吉の死後は、徳川家康と親しくなります。家康の会津征伐では息子安元を参陣させようとしたのですが、石田三成らに妨害されます。関ヶ原の戦いで、家康に与するつもりでしたが、安治が大坂に滞在していたときに三成の挙兵に巻き込まれ、やむなく約千名の兵を率いて西軍につきます。
関ヶ原の戦いでは藤堂高虎と通じ、小早川隊に呼応して東軍に寝返り、大谷吉継隊を壊滅させました。戦いの後、石田三成の居城・佐和山城攻略にも参加します。
戦いの前に嫡男の安元をして徳川家康に通じ、東軍につくことを明らかにしていた為、裏切り者ではなく当初からの味方と見なされ、戦後に徳川家康から所領を安堵されました。伊予大洲藩五万三千五百石に加増移封されました。
豊臣家への恩義はあってようで、大坂の陣では中立を守ります。1615年に次男・安元に家督を譲って隠居。京都西洞院に住み、享年七十三歳で死去しました。
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