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生駒親正

生駒親正は、1526年に生まれました。幼名を甚介といいます。
1566年頃より父生駒親重と同じくして織田信長に仕えました。
1570年、信長は越前の朝倉義景を攻めた際に、同盟国であった浅井長政が離反し、戦いの進退に窮する状況にありました。このとき、殿軍を引き受けた羽柴秀吉に、信長は勇士五人を付けた中にいたのが生駒親正です。この後、親正は秀吉とともに行動し、1575年の長篠の戦い、1576年の本願寺の変などに加わり軍功を挙げました。
本能寺の変以後も、山崎合戦をはじめ、賤ヶ岳の戦い、小牧・長久手の戦い、小田原攻めにも参陣します。このあいだに近江高島郡に領地を与えられ、翌年には伊勢神戸城四万石を加増された後、播磨赤穂にて六万石の城主となりました。
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1587年に讃岐一国を親正に与えられます。そのころの讃岐は満足な城もない国でした。生駒親正は新城を築き、堀に海水を引き込んだ水城の形式として造り上げます。完成後は高松城と名付けられました。さらに西讃の押さえとして支城の丸亀城を築きます。秀吉の信任が厚かった親正は、中老に任命されました。中老は五大老・五奉行間の意見調整、諸大名の紛争の調停が主な役目です。
文禄の役では福島正則・長宗我部元親らとともに戦います。親正と嫡子の生駒一正が朝鮮半島に渡って戦いました。
関ヶ原の戦いでは生駒一正は東軍について活躍します。一方、讃岐にいた親正のもとには石田三成から豊臣秀頼名で西軍に属し、丹後田辺城の攻撃に加わるよう要請がありました。生駒親正は、悩んだ結果、西軍に与することを決断し田辺城攻撃に加わります。
これは大恩ある豊臣家の要請を断りがたいという忠誠心からの行動でした。関ヶ原での西軍敗北により、親正は、剃髪して高野山に入り謹慎します。生駒一正の軍功もあって、親正の行動は不問に付されました。その後、一正に家督を譲り隠居。七十八歳で死去しました。

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