大野治長

父、大野定長、母は淀殿の乳母・大蔵卿です。大野治長は徳川家康が称賛する程の堂々とした大柄の美丈夫だったといわれます。年齢は大坂の陣時点で四十七?四十八歳に見えたといわれます。茶の湯を古田重然に学んで奥義を深めていました。治長は淀殿と乳兄弟の間柄でした。淀殿が豊臣秀吉の側室となると、治長もその縁により、秀吉に仕えます。
朝鮮出兵の際には、肥前名護屋に出陣。秀吉の死去の後は引き続き、その子・豊臣秀頼に仕えました。この経歴から「秀頼は大野治長の子である」という説もあります。
前田利長の計画により、浅野長政と協力して土方雄久とともに徳川家康の刺客を担った疑いにより、治長は下野結城の結城秀康の許へ配流されました。
会津征伐の直前に結城晴朝のとりなしにより、浅野・結城から兵馬を借りて会津征伐・関ヶ原の戦いでは東軍につきました。岐阜城攻めに浅野幸長に従い、本戦では罪を償うために一番槍の功を立てようと幸長に願い出て前線の福島正則(黒田長政とも)に従いました。宇喜多家の鉄砲頭・香地七郎右衛門を討ち取る功を立て、家康から多大なる褒美を受け取り家康の旗本にも取り立てられます。
豊臣家との縁の深さから大坂城接収にも一役買い、治長は一万石で豊臣家に復帰します。後に片桐且元に次いで家康の斡旋で五千石を加増されました。そのため治長は江戸駿府にお礼に行きます。
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方広寺鐘銘事件で片桐且元と対立。治長は、徳川家からも重く扱われていましたが、大坂に留まって主戦派筆頭となります。豊臣家の主導者となった彼は諸大名の来援依頼・兵糧の確保・浪人の募集・砦の構築・戦略会議などの開戦前の準備に奔走しました。
治長は、毛利家や真田家、後藤家といった浪人を集め取り立てます。大坂冬の陣では、兵一万人を指揮し、大坂城中の主将として十万の将兵の采配を振るいました。
そんな中、和議の締結に成功し、徳川方を一旦退けましたが、再度の徳川方の無理難題と城中の強硬派により、すぐに再戦となってしまいます。大坂夏の陣での戦いは豊臣方が大いに奮戦したが敗れ、城へ帰還した治長も負傷で倒れました。
このとき大野治長は最後の手段として、家康の孫娘・千姫の城からの脱出と自分の切腹を条件にかけて最後の可能性にかけたが失敗に終わりました。1615年、最後は淀殿母子に殉じ、治長は没します。豪放磊落な性格であったといわれています。

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