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加藤嘉明

父親の加藤教明は三河で徳川家に仕えていましたが、三河一向一揆で一揆側に加担したために逃亡し豊臣秀吉に仕えました。
嘉明は十三歳の時に秀吉の養子・豊臣秀勝(織田信長の四男)に仕えましたが、豊臣軍の播磨征伐に秀勝の許可なしで参戦して北政所の怒りを買います。しかし秀吉にその勇気を認められ三百石を与えられました。
その後、三木城攻めをはじめ、山崎の戦い、賤ケ岳の戦いに参戦し、特に賤ケ岳の戦いでは福島正則らとともに『賤ケ岳七本槍』と称される活躍をあげ、五千石を与えられました。その後も豊臣軍の一員として戦い、四国征伐、九州征伐、小田原攻め、朝鮮出兵において水軍として活躍しました。これらの戦いにおける軍功により伊予松前十万石の大名になりました。
秀吉の死後、嘉明は徳川家康に従い、関ヶ原の戦いでは先陣として戦い、石田三成の陣を破ります。その軍功により十万石を加増され二十万石となった嘉明は、1603年に松前より松山に城を移し、町や港の整備を行い、現在の松山市の基礎を築きました。
大坂冬の陣が起こると、豊臣恩顧の大名として幕府から警戒され江戸への留守が命じられたことから、息子の明成が軍を率いて参戦します。大坂夏の陣では参陣が許され徳川秀忠に従軍しました。
1627年に会津城主の蒲生忠郷が死亡。嫡子がなかったため改易され、嘉明が会津城主の候補に挙がりました。嘉明は老齢な上に自分が作り上げ愛着のあった松山から離れたくなかったことから、この推挙を辞退しました。
これには有名なエピソードが残っています。朝鮮出兵の際に先陣争いをして不仲になっていた藤堂高虎が、「嘉明が要衝の会津を治めるのにふさわしい」と推挙したため、徳川家光が「不仲の相手を推薦するのか」と尋ねました。このとき、藤堂高虎は「公私は別です」と答えました。
これに感動した嘉明は会津に行く決意をした結果、会津四十万石に移封となります。そこで嘉明は年貢の取立ての徹底、地場産業の改良、金銀山の採掘などに力を入れ、戦だけでなく、治世にも優れた武将でした。
1631年、江戸の屋敷で病気のため死亡した。勇将として有名な加藤嘉明ですが、茶道も愛した風流人であり、部下の失敗にも寛大な文武両道の名将でした。

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