前田玄以

1539年、美濃に生まれました。はじめは尾張小松原寺の僧侶でしたが、後に比叡山延暦寺に入りました。その後、織田信長に招かれて臣下に加わり、後に信長の命によりその嫡男・織田信忠の家臣となりました。
本能寺の変には、信忠とともに二条御所にいましたが、信忠の命で嫡男の三法師を連れて京都から脱出します。美濃岐阜城、さらに尾張清洲城に逃れました。
1583年から信長の次男・織田信雄に仕えて京都所司代に任じられます。羽柴秀吉の勢力が京都に及ぶようになると、秀吉の家臣として仕えました。
1595年に豊臣秀吉より五万石を与えられて丹波亀山城主となりました。思慮深く私欲の無い性格で、織田信長・信忠父子からは信任が厚かったと言われています。
豊臣政権においては京都所司代として朝廷との交渉役を務め、1588年の後陽成天皇の聚楽第行幸では奉行として活躍しました。また京都の寺社の管理や洛中洛外の民政も任され、かつて僧侶だった関係からキリシタンを弾圧しましたが、後年にはキリスト教に理解を示し、融和政策を行いました。
京都でキリシタンを秘密裏に保護。またポルトガルのインド総督とキリシタン関連で交渉したことがあったともいわれています。同じ宗教者としての理解を示していたことがわかります。
秀吉の命令で豊臣政権下の五奉行の一人に任じられました。豊臣秀吉の聚楽第行幸に尽力し、その事を取り仕切ったことを生涯誇りにしています。秀吉の死後は豊臣政権下の内部抗争の沈静化に尽力し、徳川家康の会津征伐に反対しました。
1600年、石田三成が大坂で挙兵すると西軍につき、家康討伐の弾劾状に署名した一方、家康に三成の挙兵を知らせるなど内通行為を行いました。また豊臣秀頼の後見人を申し出て大坂に残り、更には病気を理由に最後まで出陣しませんでした。これらの働きにより関ヶ原の戦いの後は丹波亀山の本領を安堵されて初代藩主となりました。享年六十三歳。
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